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  • 2008.03.19 Wednesday
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釈迦、日蓮、戸田、三聖会談(5)最終話

三人とも、サイババの余韻にふけっている。

釈迦、おもむろに口を開く。

釈迦 そろそろこの会議も終わりにしたいが、
   最後に、今後、学会がどのようになって行くと思うか聞かせて欲しい。

戸田 排他的な思想を持つ宗教というのは、
   いずれにせよ、社会に受け容れられなくなって来ると思います。

   学会も、他の日蓮系教団で、すでにそうしているところがあるように、
   次第に排他性を除外し、
   他との共存を目指す方向に行かざるを得ないでしょう。
   それ以外、存続の道はありません。

日蓮 ここまでの大教団に至るまでは、かなりの無理をしております。
   今後、社会に受け容れられるようになるためには、
   その無理をやめるしかありません。
   そうなるならば、次第に教団の規模が小さくなって行くでしょう。

戸田 山田君も、生涯のうちに、教義的主張を変えております。
   ですから、山田君亡き後、学会は山田教学に固執することはないでしょう。
   山田君自ら、最近では原理主義を否定しておりますし。
   将来、学会は、世間と調和するための、柔軟な教学を打ち出すはずです。

日蓮 他を批判する事で、内の団結を固めようとするのは、山田会長の手法です。
   この手法に対する外部からの批判の声も大きく、
   世間との調和をはかる学会としては、
   山田会長亡き後、この手法を放棄するしかないでしょう。
   すなわち、法華正宗や脱会者を攻撃する事を止めるでしょう。

戸田 それを空気で感じているから、今、山田君も必死なのです。
   もし、自分が亡き後、学会が柔軟化、小規模化してしまえば、
   自分のやって来た事はみな無意味になる。

   人は自分のやって来た事を「正しい」と思いたい。
   山田君だって、自分のやって来た事を、
   人間として「正しい」事だと信じているのです。

   彼は本当に自分の事を、日蓮仏法の正統な後継者であると思っております。

   だから、絶対に自分の手法を、後代まで残したい。
   そのために、日々、大号令を発しているのです。

   電球は、消える直前、一瞬、強く光ります。
   人も死ぬ時、一度、大きく目を見開いて死ぬのです。

   今、学会が妙に活発な動きをしているのは、
   山田君の最後のもがきであります。

日蓮 あと二十年もしたら、吉兆校生会のように、
   学会は何でもない宗教団体となるでしょう。
   その時が来るまで、私は霊界から、学会を凝視続けます。

戸田 私は、山田君が霊界に来たら、二人で反省会をします。
   霊界の中だけですが、迷惑をかけた人には、二人で詫びて回るつもりです。
   
釈迦 その後、お二人はどうなさるつもりか?
   やはり下界に?

戸田 私が下界に戻れば、霊界で学んだ事などすべて忘れてしまい、
   また、酒と女と金に走りそうな不安があります。
   しかし、魂というものは、永遠に修行し続けねばならない。
   いい加減、霊界も飽きましたし。

日蓮 私は下界に降り、差別的な宗教思想と戦いたいと思います。
   たとえば、中東に生まれ変わり、
   イスラム教改革をするのも良いかも知れません。
   寒い土地はもう、こりごりですし。

戸田 ところで、お釈迦さまは?

釈迦 学会問題ばかりではなく、仏教界にはさまざまな問題が多いのです。
   
   しばらく、下界のモニターを監視し続けることになるでしょう。

   いつになるかわかりませんが、
   その作業がひと段落しましたら、下界に降り、
   今度は、出家せずに、在家として妻子を大事にしたいと思います。
   それが本当の、人間としての幸せであり、また、修行であるからです。

   そしてブタ肉だけは、絶対に食べませぬ。

(おわり)

釈迦、日蓮、戸田、三聖会談(4)ビッグな仏 

戸田 最澄さまはお名前の通り、純粋ですな。
   ひたむきな方ですな。

釈迦 そのひたむきさが、良い風に出ればいいが、
   悪い風に出ると、一つの法門にこだわる心が出て来てしまう。

   そこで、宗教というものについて、
   もう少し、深く考えるため、特別ゲストをお招きしたい。
   なかなか忙しくてめったに会えない方だ。

ここで壮大なBGM(ロス五輪のテーマ)が流れ、
最澄の去った椅子を、七色の明かりが包み込む。
次の瞬間、どーんと、大柄で、派手なアロハシャツのようなものを着た男が現れた。
これが大乗仏教を象徴する仏、阿弥陀如来である。

釈迦、日蓮、戸田、あっけにとられる。

弥陀 よう!

釈迦 これはまた、ド派手な登場の仕方ですな。

戸田 あ、阿弥陀さまに会えるとは思わなんだ。

釈迦 日蓮君、恐縮してるようだね。

日蓮 そりゃあ、私は生前、阿弥陀さまに対し、相当ひどい事を言いましたからね。
   阿弥陀如来は別世界の仏であるから救ってくれないとか。

戸田 最近の学会は、もっとヒドイ事を言っております。
   阿弥陀如来は想像上の仏であると。

釈迦 浄土真宗でも、阿弥陀如来は存在しないなどと平気で言っているようですね。
   「仏、ほっとけ」と。

弥陀 仏教の人たちの間で、私の存在が否定されるようになったのは、
   大乗非仏説が出たあたりからだろうね。

戸田 大乗仏教が非仏説、つまり、
   釈迦の教えとは異なるものだと言う事になりますと、
   当然、そこに登場します、阿弥陀さま並びに、
   数々の諸仏菩薩の存在が否定されることになります。

弥陀 もともと私は仏教の仏じゃない。
   古代ペルシャのゾロアスター教で、
   アフラマズダとして信仰されていたのが、
   仏教の仏としても敬われるようになったんだ。
 
   私もなかなか偉いもんだねえ。

戸田 ところで、その派手なファッションは、アフラマズダのほうですか?
   阿弥陀のほうですか?

弥陀 どちらでもない。

   私は古代、人類が文明を持って間もない頃、
   釈迦君のように、真理を求めて修行した者だ。

   死後、私を尊敬する者が、私を神として崇拝するようになった。
   そのうち、私は呼び名を変えられながら、
   色々な地域で信仰されるようになった。

   そのたび、イメージされる姿形も異なるので、
   わけがわからなくなって、もう、どうでもいいやと、
   このファッションにしたのさ。
   
戸田 鎌倉の大仏とは随分、イメージが異なりますね。

弥陀 あれはちょっと地味で嫌だな。
   野ざらしだし。
   パンチパーマきついし。

   私はしょせん、霊魂だから、
   どうイメージしてもらってもいいんだけど。

日蓮 私は、極楽浄土という特別な世界があるかのように思っていましたが、
   そのようなものは無いのですね。

弥陀 死んで魂が向かう世界、すなわちこの霊界というのは、
   西もなければ東もない。
   まったく異次元であって、物質的な拘束を受けない世界だね。
   だから、人間の考えるような極楽浄土はない。

   ただ、あえて言えば、私を信仰する時、
   心に生まれる安らぎが、極楽浄土だな。

   おててのシワをシワを合わせて、幸せ。

釈迦 仏教徒が勝手に阿弥陀さまを信仰し、た勝手に否定したする。
   開祖としてまことに申し訳ない限りです。

   ところで、「阿弥陀などいない」と申す者を、
   阿弥陀さまはお助けになられますか?
   
弥陀 神や仏と言われている者は、要するに、人々の、遠い、遠い先祖です。
   先祖はみな、子孫を見守り、幸福を願っています。
   
   多くの人間は「先祖は死んだのだ。もう居ない。」と思っています。
   先祖の事は、忘れ去られてしまいます。
   それでも、先祖は子孫の事を見守り、幸福を願い続けます。

   それは私も同じ事であり、
   人々が私に対する信仰があろうと、なかろうと、
   私は人々を見守っています。

   神仏が居ないと思っていただいても結構。
   それでも我々は手を差し伸べたいと思っております。

戸田 ですが、どれほど神仏がそう願っても、
   下界から不幸が消える事はありません。

弥陀 親はわが子に、正しい道を歩んで欲しいと願います。
   ですが、わが子が、その親の心に気づこうとしなければ、
   その親の願いは宙に舞うだけです。
   
   子供は親が何を思っているか、純粋に心を開いた時にのみ、
   その考えを受け止める事ができます。

   いくら神仏が人類の幸福を願っても、
   人類が神仏に心を開かねば、神仏の考えは伝わりません。

日蓮 しかしながら、太古より、人類には宗教があり、
   神との対話を心がけて来ました。
   それでも、人間社会から戦争や貧困、病気が途絶えた事はありません。

弥陀 そうですね。
   現代よりも、昔の人のほうが、よく神に祈ったと思います。
   為政者もまた、何らかの信仰を持っていたものです。

   にも関わらず、戦争を起こしてしまうのは、
   それだけ煩悩を制する事が難しいという事です。

   一時は、信仰により、正しい心に目覚める。
   ですが、次の瞬間には、すぐに現実に流されるのです。

   強い信仰を持続し、煩悩を制御するというのは、大変に困難な事です。

   また、神仏と申しますのは、
   キリスト教の説く、創造主のようなものではありません。
   もともとはみな、人間です。
   そのうえ、すでに肉体が無いのですから、
   ある意味、人間よりも無力な存在です。

   ですから、自然災害を神仏がどうにかできるものではない。
   病気をこの世から無くす事もできません。
   
   ではなぜ信仰が必要なのか?
   それは、自らの心を制御すること以外はありません。

   煩悩に流され、自らの事しか考えぬ心に打ち勝ち、
   他人を自分のように愛する心を育む。
   そのような人格を生み出すために、先駆者である神仏を敬うのです。
   
釈迦 無神論者であっても、理性を強くたもてば、同様の境地に到達できますが、
   人は非常に弱い存在ですから、時として自暴自棄になりやすい。
   神仏への信仰というものは、
   いつ折れてしまうかわからぬような心を支えるための、杖なんですね。

弥陀 その信仰者の模範として、イエス・キリスト君がおりますね。
   彼は常に、神に対する強い信仰を持続し、
   死に際しても、それを捨てる事がなかった。

釈迦 彼のような者こそ助けねばならぬと、彼を害せんとする者に対し、
   「キリストは神の子である。殺してはならぬ。」
   と語りかけたのですが、とうとう、その心を覆すことはできませんでした。
   邪心の者には、我々の言葉は届かぬのです。

弥陀 神仏は本当に無力なのです。
   民族を抹殺しようとする者。
   爆弾を落とそうとする者。
   それらに対し、神仏は常に「やめなさい」と訴える。
   だが、神仏を拒絶する者に、その言葉は届かない。

戸田 しかし、たとえば、イスラム教の場合、強い信仰心を持ちながら、
   テロをやって、無関係な者を殺害するわけでしょう。

日蓮 彼らは神を信仰しているようで、実は神ではなく、
   積もり積もった民族の怨念のようなものを
   信仰しているのではないでしょうか。

弥陀 寺院に居るのは必ずしも、神ではない。
   人々が憎しみをもって祈れば、そこには神ではなく、邪悪なものが降臨する。

日蓮 かつて日本において、
   権力者同士が互いに密教の修法で
   呪詛をかけあうという事がしばしばありましたが、
   これは神仏ではなく、邪悪なものを動かし合っていたわけですね。

戸田 神仏に向き合う時、すでにそこに「正しい心」が必要なんですね。
   つまり、神仏が存在するとか、しないとか、
   神仏が何をしてくれるという事よりも、
   正しい心で神仏に向き合うという行為、それ自体に意味があるのですね。

   確かに、
   「俺は神も仏も信じられない。信じられるのはお金だけ!」
   とやっきになって働いている人よりも、
   信仰を持っている人のほうが、人間性が優れている事が多いですからね。
   
   信仰によってどんな利益があったか、という事の価値ではなく、
   信仰を持つ事自体の価値です。

弥陀 その後者の価値のほうが重要なのです。
   だから、何教とか、何宗とか言うのは、まったくどうでも良い話です。

戸田 呼び名は違えども、世界中で阿弥陀さまは信仰されております。
   今、この瞬間も、どこかで阿弥陀さまを呼ぶ者があるはずです。
   
   身体がいくつあっても足りませんね。

弥陀 過去に私を信仰した者は、霊界に来て、みな私の眷属(けんぞく)、
   つまり、私の役割を手伝ってくれている。
   それが何百万、何千万といるのです。
   私の名を呼べば、必ず誰かが聞きつけて、動いてくれます。

   それにしても、確かに時間は足りない。
   こう有名になってしまうとな。

   てなわけで、私は仕事に戻る。
   
   君たちに、幸あれ!

阿弥陀、手からビブーティー(聖なる灰)を出しながら姿を消す。

日蓮 この灰に何の意味があるんでしょうか?

戸田 サイババのマネでしょう。

釈迦 それにしても、ビッグな方ですな。

(つづく)

釈迦、日蓮、戸田、三聖会談(3)澄んだ目の人

戸田がため息をついているところ、
空いていたもう一つの椅子に、僧衣を着た男が現れる。
気品ある、澄んだ目をした五十歳くらいの男。
この人物は、比叡山暦寺開祖、伝教大師、最澄である。

日蓮 これは伝教大師さま。

釈迦 おう、最澄君ではないか。

最澄 会議中、申し訳ございません。
   お釈迦さまと日蓮殿に、ごあいさつに参りました。
   私、これより下界に生まれ変わり、さらなる修行をして参ります。

釈迦 決断なさったな。

最澄 はい。
   これまで、私の伝えた法門が、
   どのように後世に影響するのか、見守って参りました。

   比叡の山が堕落する姿も見ました。
   天台宗から、いくつもの宗派が分かれて行くのも見ました。
   日蓮殿の法門も、その一つです。

   日蓮殿を責めるつもりではございませんが、
   私の伝えた法華至上主義という悪弊を、
   見事に継承してしまったのが日蓮殿です。

   私が下界での寿命を終え、霊界に来ますと、
   手をとって出迎えてくれましたのは、
   中国における天台宗の開祖、天台大師、智覬(ちぎ)さまです。
   
   天台大師さまが頭をかいてこうおっしゃられるのです。

   「私の法門を、人生をかけて日本にもたらしてくれた事を感謝します。
    ですが、どうやら、私の法門には間違いがあった。
    それは、すべての経典をお釈迦さまの教えとし、
    その中で法華経こそ、お釈迦さまの究極の教えであるとする教義です。
    私もこの霊界に来て、はじめて知ったのだが、
    法華経も、他の大乗経典も、お釈迦さまの教えとは無関係だったのです。」

   あまりのショックで気絶しそうになりました。
      
   ですが、私のもたらした教義は、そのまま後世まで伝わり、
   やがて日蓮殿が、こともあろうに法華至上主義を強調する法門を立てたのです。

   それ以来、どれほど私が後悔したことか、言葉で言い表す事はできません。
   言葉で言い表す必要はないのですが、霊界なんで。
   
   人類発生と共に宗教は誕生しました。
   その頃の宗教は、目に見えぬが、
   人間を見守ってくださっている存在を信じ、
   敬虔(けいけん)に手を合わせることです。

   世界各地で宗教は生まれますが、基本はみな同じ事です。
   人間を見守ってくれる、目に見えぬ存在に手を合わせるのです。

   ですから、いずれの宗教にも、
   優れている、劣っているという違いはありません。
   もちろん、人を害するような教えは邪教でありますが、
   万民の幸福のために説かれる宗教は、みな同じです。

   にも関わらず、私が法華経のみが優れているとし、
   他の経典、他の宗派を見下してしまったがために、
   それを継承した、日蓮殿の宗派が、排他的な特徴を持ってしまったのです。

   これではいけない。
   このままにしていてはいけない。
   そのように考え、私はとうとう、下界に降り、
   排他的な教えを戒めて来ようと思ったのです。

日蓮 やっぱり、責めてますよね。

釈迦 これまで色々な者たちが、最澄君のように、下界に下り、
   宗教の協調を説いている。

戸田 その成果もあり、
   最近、宗教と宗教がともに平和のために協力し合おうじゃないか、
   という動きが、下界では起きているようですね。

   今、学会よりも、はるかに深刻なのは、イスラム教とキリスト教の対立です。
   多くの人の血が流れています。

   日本でも、オーム真理教のサリン事件のような例もあります。
   排他的、独善的宗教が行き着いた先が、この事件です。

   宗教的差別がいかにむなしいものであるか。
   人々に、もっと、もっと、知らしめる必要があります。

日蓮 伝教大師さまのお話は、本当に、胸が痛いのですが、
   私も、もう少し下界の様子を見守ってから、
   大師さまの後に続こうと思います。

最澄 それではお釈迦さま。
   日蓮殿。
   戸田殿。
   行って参ります。

最澄、忽然と姿を消す。
   
(つづく)

釈迦、日蓮、戸田、三聖会談(2)正当性の根拠

釈迦 ただ、しかし、この問題は、どうやら法華経の件が根本ではないようだ。

日蓮 そうなんですよね。
   大乗非仏説については、山田会長はもちろんの事、
   会員でも、その事は随分、知っている人がいるようです。

釈迦 じゃあ、なんで学会は法華経にこだわるんだ。

戸田 法華経が釈迦の説いた教えであるとか、無いとかは、どうでもいい。
   その教えの内容が素晴らしいから、法華経を信じるのだと。

   そう言いながらも、
   法華経二十八品を通読した経験のある会員は少ないわけですが。

日蓮 例えば、
   「分別功徳品というのは、どういう内容か?」
   と質問して、即座に答えられるものはどれほどいるでしょうか。
   
戸田 中には、観世音菩薩普門品、いわゆる観音経ですが、
   これが法華経本門の中の一品である事を、知らぬ者もおります。

釈迦 では、なぜ彼らは「法華経の内容が素晴らしい」と言えるのか。

戸田 私の師である牧口常五郎に、
   「認識せずして評価すべからず」という名言がございます。

   この言葉に照らすならば、法華経を通読した経験も無い者が、
   「法華経の内容が素晴らしい」など、言えるものではございません。

日蓮 「法華経の内容が素晴らしい」と、学会ではされているから、
   「法華経の内容が素晴らしい」と信じている、というところなのでしょう。

釈迦 それというのはつまり、法華経を信じているのではなく、
   学会という組織を信じているのではないかね。

戸田 その通りなのです。

   さらに加えて申すならば、彼らは法華経を学んだ事はありませんが、
   南無妙法蓮華経の題目は毎日、唱えております。
   これにより、体験的に題目の力を確信しております。
  
釈迦 学会の本尊は、日蓮君の書き顕わした曼荼羅だが、
   この曼荼羅には、私の名が記してある。
   
   私だけではなく、四天王、不動、愛染、天台、伝教、天照、八幡等。

   自分たちの名が記されている以上、無視するわけにも行かぬ。

   神仏というのは医者と同じである。
   泥棒であろうが、人殺しであろうが、
   自分のところに駆け込んで来た患者は、助けずにはおられない。

   ただ、我々が助けるのは、純粋に神仏の守護を願う時だけである。
   誰かを憎んだり、恨んだり、
   ひたすら利己的な欲望を叶えようとする者を守護することはない。

戸田 邪悪な心をもって祈れば、
   神仏ではなく、邪悪なるものを招いてしまうのですな。

   これは私の責任でもあるのですが、どうもその、学会では、
   誰かを憎んだり、恨んだり、
   ひたすら利己的な欲望を叶えようとする者が多いようですね。

日蓮 私の責任もあります。
   誰かを憎んだり、恨んだりという生涯でございました。
   ひとえに、人よりも秀でたいという思いからでございます。

釈迦 欲望に執着すること。
   自らを人よりも偉く思わせようとすること。
   自分だけを愛すること。
   これが煩悩であり、この煩悩から自らを解き放てというのが私の教えだ。
   
   仏教を名乗っていながら、この煩悩を克服しようというどころか、
   かえって、この煩悩を強めてしまう教団が多いようだね。

戸田 照れるなあ。

釈迦 では、学会は、教義的なところでは破綻していながら、
   信仰体験のみを根拠に、正当性を主張しているというわけだね。

日蓮 私は弟子に対しては、
   「私の教義が破れたならば、用いてはならない」と伝え残したのですが、
   学会では堂々と用いているようでございます。

戸田 信仰体験というものは、どこの宗教でもあるのです。
   いや、たとえ無神論者であっても、
   その行動や心構えが神仏の御心に叶うのであれば、
   神仏は宗教信者と変わる事なく、守護してくださいます。

   要するに、こっちの宗教よりもあっちの宗教のほうがご利益があるとか、
   神仏を信ずる者は救われるが、信じないものは救われないとか、
   四角いメガネの者は救われるけど、丸いメガネの者は救われないとか、
   そんな事はまるで無いのですね。
   
   どれほど神仏の守護を得られるかというのは、
   その人の行動と心構えが、神仏の御心に叶っているかどうかなのですね。

釈迦 神仏が守護すると言っても、我々には肉体はない。
   こうして、霊界から想いを送る以外にはない。

   この想いを受け止め、
   人としての正しいあり方を確認する、というのが信仰なのだ。

   ひと言で言い表す事は難しいが、
   人には、人としての「正しい」あり方がある。
   人は、この「正しい」あり方を、常に追い求めて生きる必要がある。

   我々神仏の役割とは、その「正しい」あり方を、肯定してあげる事なのだよ。
   賞賛してあげる事なのだよ。

   よし、その通りだ。
   そのまま行け、と。

日蓮 法華経において、釈迦の教えが正しい事を、多宝如来が立証する。
   多宝如来は特別に何か説法をするわけではなく、
   あくまでも釈迦の教えを立証するために同座する。

   これが人と仏の関係ですね。
   人が釈迦であり、仏が多宝。

戸田 臨済宗という禅の宗派では、師匠が法門についての設問を出し、
   弟子がその答えを考えて、師匠の前で答える。
   それに対し、師匠が正解、あるいは不正解の合図を出す。

   「祈り」ってのは、人間と仏との禅問答なんですね。
  
   って事は、禅宗における「座禅」に相当するのは何でしょうか?

日蓮 日頃の思考、思索、そのものでしょう。
   
   たとえ、あぐらをかいて座る行為をしなくても、
   日常生活の中で仏法に照らし考え続ける事。
   これが禅でしょうね。
   
   そして、その答えを仏の前に持って行く。

釈迦 結局、思考というものは、自分の頭でするしか無いからねえ。
   また、自分の頭で出した答えしか、本物ではない。
   
   仏は、人が出した答えに対し、それが正しければ肯定する。
   仏に肯定されたかどうかは、人が自分で気づくしかないのだが。

日蓮 仏に肯定されれば、自分の決断について、自信が出る。
   「よし、これでいいのだ」と。
   仏に認められたか否かということは、
   宗教的実践の積み重ねによって、実感できるようになって来る。
   これは理屈では割り切れない「宗教体験」なんですね。

釈迦 ただし、その「実感」が誤解におちいらぬように、「戒律」がある。
   「戒律」と言っても、今は、法律や世間的常識の中の吸収されているので、
   最低限、法律や世間的常識を守る事は心がけねばならない。

   持戒、つまり、法律や世間的常識を守る事。
   禅定、つまり、思索と祈り。
   この両者がバランスよく実行できていなければ、エゴにおちいる。

戸田 祈りの中で、自らの答えに対し、
   仏に立証された、仏に賞賛されたという実感を得るには、
   そのような答えを持って行けるような勉強が必要ですね。

   つまり、人としての「正しい」あり方とは何かという事について、
   日頃から仏教に基づき、考え続けていなければならない。

   そのためには本を読んだり、知者の教えを聞いたりする必要がある。
   もちろん、経験から学ぶ事も重要です。
   これが「智慧行」。

   持戒、禅定、智慧の三学ですね。

釈迦 人としての「正しい」あり方とは、煩悩に支配されぬということ。
   他人を自分のように愛するということだ。
   これは私の教えに比較的近いとされる原始仏典の根底にある思想だ。

   だが、言うは易く、行うは難し。
   これを弱肉強食の下界で実践することは、本当に困難な事である。

日蓮 極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず。
   楽な世界で生きていても、何の修行にもならない。
   下界という苦しい世界で生きるからこそ、魂は養われるのですね。

   そして、幾度も幾度も下界に生まれ変わり、魂を養い、
   煩悩に打ち勝った者が、神仏なのですね。

釈迦 その神仏という言葉はあくまでも下界の言葉でしかない。
   神仏がゴールであるというのは下界の認識だ。
   
   魂というのは、放っておけば堕落する。
   ここで終わりと考えたら、即座に転落する。

   だから下界の人々に神仏と呼ばれているような存在であっても、
   常に修行を続けているのだ。

   こうして霊界から、下界の人々を見守るのも修行だ。

日蓮 また、霊界に留まるのではなく、下界に生まれ変わる神仏もおられます。

釈迦 下界において「神仏」と呼ばれている者であっても、
   自らの魂をさらに高めるために、幾度も、幾度も生まれ変わる。

戸田 エライ事ですね。
   はあ。

(つづく)

釈迦、日蓮、戸田、三聖会談(1)霊界

ここは霊界の会議室。

会議室の中央に白いテーブルと、その周辺に白い椅子が4つ置いてある。

その椅子の一つに、忽然と一人の人物が姿を表す。
痩せ型で、60歳近い男。
丸メガネをかけ、鼻の下にヒゲを生やしている。

この人物は、価値哲学学会第二代会長、戸田少聖である。

戸田 参ったなあ。あの方に呼びつけられてしまったよ。
   会議だってさ。
   霊界ってのは、エライところで、
   時々、色んな人が集まって会議やるんだよな。
      
   死んでも絵に描いてあるような地獄とか、
   極楽みたいなものは無くて、死んだ者はみな、
   同じこの霊界ってところに集まる。

   動物も植物もみんなだぜ。
   犬は犬として、この霊界を歩き回り、
   魚だっていて、雲の中を、まるで海のように泳いでいる。
   
   恐ろしいのは、下界では、動物や植物は言葉を持たないが、
   霊界では動物も植物も話ができるのさ。
   口を動かしているわけじゃなくて、意志が交流し合うんだな。

   飼い主と飼い犬が霊界で出会って
   「ポチ、おまえ元気でやっていたかい?」
   「また会えてうれしいワン」
   とかやってるんだぜ。
   おどろいちゃうよ、まったく。
   
   こりゃ、いい例だけど、もし、飼い犬をいじめていたとしたらどうなるか?
   犬のほうが先に死んで、飼い主が後で行くケースが多いんだけど、
   犬は必ず飼い主を待っているんだな。
   飼い主はもちろん、驚き、犬に何言われるのか、ビクビクするわけだ。
   すると犬は
   「生前は育ててただき、ありがとうございました」
   と、こう言うのさ。
   
   普通、ののしるだろう?
   でも、この霊界では違うのさ。
   そりゃ、霊界に来た最初の頃、下界の頃の性格を引きずる。
   でも、数ヶ月もすると、浄化されて、自己反省するようになるんだな。
   
   飼い主としては、犬にののしられたほうがマシだよな。
   でも、こうやって礼を言われたら、ひたすら羞恥心が沸いて来る。
   そして、数ヶ月すりゃ、魂がだんだん浄化されてくるから、
   自分がどれだけ悪いことをしていたか、自分でわかるのさ。
   自分の醜い姿を鏡に映すようなもので、大変な後悔の念が沸いて来る。

   これは一時が万事。
   生前、そうとうひどい事やって生きて来た人は、あの世でひどく悔やむ。
   迷惑をかけた人とかに会うわけさ。
   いや、そういう人にこそ、会うようになってるんだ。
   この霊界は。
   だから、そういう人に会って、顔から火の出るような、
   穴があったら入りたい気分になる。
   でも、霊界には隠れる場所はどこにも無いのさ。
   これが地獄。

   反対に、世の為、人の為に尽くして着た人は、
   霊界に来て、みんなに感謝される。
   これが極楽さ。

   会議って言うのは、その人が一体、何をやって来たかってことを、
   何人かで集まって話し合うのさ。
   それで自己反省するわけ。
   生前の行いが悪かった人間ほど、恥をかくことになる。
   まさに地獄の思いさ。  

   なんて考えているうちに、あの方が来ちゃったよ。

もう一つの席に、四十歳くらいの、ネパール系の男が現れる。
白い袈裟を着て、額に赤い点をつけ、頭はパンチパーマ。
この男は、仏教の開祖、釈迦如来である。

釈迦 やあ、戸田君、待たせたね。

戸田 これはこれはお久しぶりでございます。
   今日は、お若いですね。

釈迦 霊界には肉体が無いからね。
   いわばバーチャルだから、いつでも好きな年齢に設定できるのさ。
   
   今日、わざわざ来てもらったのは、相変わらず、君の宗教団体・・・

戸田 価値哲学学会でございますか。 

釈迦 そうそう、その学会さ。
   これが相変わらず、色々と世間を騒がしている。
   それで、もう一度、会議をしなきゃならないと思ってね。

   何もここは私が君達を責める場じゃないよ。
   私も含めて、みんなで反省するってことさ。

戸田 はい。
   覚悟して来ております。

釈迦 それにしても、彼はまだ来てないようだね。

すると、空いた席に、ネズミ色の袈裟をかけた、頭が坊主の男が現れる。
60歳くらいで、骨格ががっちりしている。

現れるやいなや、突如、テーブルの下に潜り込もうとする。

釈迦 おいおい、日蓮君。
   気持ちはわかるが、そう隠れようとしてはならない。
   ちゃんと座りなさい。

日蓮 はい、すみません。

日蓮、ちらっと戸田を見て、恥ずかしそうに一礼する。

戸田 大聖人、お久しぶりです。

日蓮 大聖人と呼ぶのはやめてくれと言っているでしょう。

戸田 あ、いや、生前の習慣が抜けなくて。

釈迦 それじゃあ、はじめよう。
   日蓮君も戸田君も、自分の部屋においてあるモニターは観ているだろうね。

戸田 観たくなくても、霊界には、各自の部屋にモニターが設置してあって、
   下界の様子が常に放送されており、
   暇があれば、それを観ている事になります。
   我々霊魂には、睡眠時間が必要ありませんので、他にやる事もなく、
   また、どうしても下界が気になり、観ざるを得ないわけです。

日蓮 霊界に来て700年、毎日、毎日、モニターを観ております。
   自分のやった事が、こんな風に後世に波及してしまったのか。
   毎日、悔しさと悲しさと後悔の念でいっぱいです。

釈迦 そんな事を言ったら、私など2千年以上だぞ。
   日蓮君や戸田君の比較ではなかろう。

   それでも、霊界でいろんな人と会い、
   部屋に帰ったらモニターを観る。
   そして、たまには会議も行う。
   この中で反省を繰り返す中で、我々の魂は浄化されて行くのだ。

戸田 以前、自分がさんざん食った豚と会議をやったわけでございます。
   悪態の一つもついてもらえば、まだ救われるものの、
   「それが弱肉強食というものだブー。自然の摂理だから仕方ないブー。
    ま、ちょっと食いすぎちゃったかも知れないけどね、ブー。」
   と、まるで恨んでないわけでございます。
   それどころか
   「ボクたちは人に食われた事で徳を積めた。
    そのおかげで、次は人に生まれ変わる事ができるんだブー。
    感謝してるブー。」
   と、こうでございます。
   私は泣けて泣けて、仕方ありませんでした。

釈迦 そう言えば、私はブタ肉に当たって、死んだのだったな・・・

日蓮 私など、霊界に来てすぐに、
   真言宗の空海上人、臨済宗の栄西上人、
   浄土宗の法然上人らとの会議に呼ばれたのですよ。
   つまり、要するに私が言って来たところの邪宗の上人方です。
   
   私は生前、大衆に、念仏者は地獄に堕ちると説いて来たのです。
   その私が念仏の宗祖と顔を合わせた気まずさよ。
   
   霊界に来ますと、教義なんてものは意味がないって、みんな痛感する。
   宗派だ、門流だって事が、バカバカしい事だと気づく。
   すべての宗教、宗派は、みなすべて欠点あり、長所あり、
   だからこそ、すべての宗教者は自己を反省する目を持ち、
   他の宗教からも積極的に学ばねばならない。
   そして、見識を深めねばならない。
   
   にも関わらず、私は、仏教以外の宗教を外道だと批判し、
   他の宗派を邪宗であるとののしった。

   私ほどではないですが、生前、法然さんも同じような事を
   やって来たのであります。
   ですから、法然さんも
   「それは、お互いさまですよ。」
   と言ってくれたのですが、それでも恥ずかしい思いをしたのです。

   空海上人に対しては
   「あなたの法門を真似しながら、否定することをしてしまい、
    申しわけございません。」
   と謝りましたら、
   「それは大なり小なり、どんな方もやっている事です。
    私だって、密教は顕教の延長線上に成立したのに、
    顕教は密教よりも劣っていると主張して来たのです。
    お互いさまでございますよ。」
   と、こうでございます。

   栄西上人に対しては
   「法華経にも、真理は文字では言い表せないと言う、
    いわゆる不立文字の義が書いているのに、
    禅の法門だけを一方的に否定してしまいました。」
   と詫びましたら、
   「法門を言葉にして人に伝えるというのは
    なかなか難しい事でございますね。」
   と、この方もまったく責めて来ない。

   その後、真言律宗の忍性上人、いわゆる極楽寺良観さまも霊界に来られ、
   お会いしたのです。
   「あなたはハンセン氏病患者を救済するという具体的な菩薩行をなされ、
    私は口先の法門しか説いて来なかった。
    にも関わらず、私はあなたにキバをむいた。
    私が竜の口で打ち首になろうとした時、
    あなたは減刑の嘆願書まで出してくださった。
    それでも、私はあなたを逆恨みし続けたのです。
    何と申し上げて良いか。」
   と泣いておりましたら
   「もう過ぎた事は良いのです。
    私が一つ残念に思っているのは、
    江戸時代に良寛上人という温厚で徳のある禅僧が生まれ、
    その方と私が、今現在も、混同されているという事です。
    これには良寛さんのほうも苦い顔です。」
   などと、冗談を言ってなぐさめてくれたのです。

   念仏無間地獄、禅天魔、律国賊、真言亡国。
   この方々とこの霊界で会ってしまった。
   これこそ、針のむしろですよ。

   何よりも恥ずかしいのは、私の弟子達、つまり、
   私を宗祖として崇拝して来た、法華信者達との会議です。
   
   熱心に信仰した者ほど、周囲の者を強引に折伏し、
   その結果、友人も失い、親類、家族も失ってしまった。
   こういう者と会うたびに、
   本当に申し訳ない事をしたと詫びるしかないのです。

戸田 わかります。
   私も日々そうです。

   死んでばかりの頃は、まだ自分の宗教が正しいと思い込んでますから、
   霊界に来るやいなや、私に会いに来て、
   「先生〜、お会いできてうれしいです。
    ここは霊山浄土ですね。よかった。学会の教えは正しかったんですね。」
   などと狂気する。
   本当に当惑してしまいます。

戸田、日蓮、二人ともうなだれる。

釈迦 え、まあ、それでは本題に入りたいと思うが、
   お二人とも、価値哲学学会、いわゆる学会の現在の状況だが、
   これについてはいかなる印象を持っておられるかな。
   
戸田 私の弟子の山田伸作君ですが、やり方に極端な面もありますが、
   私の構想に基づいて、行動していると思います。

釈迦 たとえば、どういう風にだね。

戸田 政界、財界、司法界、行政の各分野において、学会が力を発揮する。
   これが私の構想でありました。
   本家の法華正宗と分離した事は、私の想像外でありましたが、
   私が日頃、本山に抗議を行って来た事から考えますと、
   山田君がこのような判断をしたのも当然の成り行きでしょう。

日蓮 私も、学会のやり方に非常に問題点が多いのは理解しておりますが、
   そもそも、学会のような強引な布教方法を生み出したのは、
   私の教え自体に問題があるからです。
   すべてこれは私の責任です。
   お釈迦さま、申し訳ございません。

釈迦 いやいや、私に謝るのは筋が違う。
   そもそも、数知れぬ仏教宗派が誕生し、
   世の中が混乱してしまったのは、
   私の伝道の仕方が間違っていたからだ。

   私は「こだわるな」と言うのが主義主張であったため、
   教えを文字に刻む事までこだわりであると感じ、
   それをやって来なかった。

   私の死後、私の直接の弟子達が、
   記憶をもとに私の教えを「経」として残したから多少は良いが、
   その後、私の名のもとに、勝手に経を成す者が出て来た。
   
   私が石版にでも経を刻みつけ、同じものをいくつもつくり、
   方々の洞窟に埋めたり、方々の偉人、賢人に託したりすれば、
   ここまで、教えが変質して広まる事は避けられただろう。

日蓮 私は、すべての経典をお釈迦さまの教えとみなし、
   その中で、法華経が一番優れているという考え方を広めてしまいました。
   知らなかったとは言え、偏狭な教えを説いて、
   人々に大変、申し訳ないことをしたと思っております。

釈迦 霊界で、その法華経を書いたという人々に出会ったが、恐縮していたな。
   私は
   「それでも、法華経は、いい役割も果たしているようですよ。」
   と言っておいたが。

戸田 お釈迦さまの教えだけが真実の教えではなく、
   色々な思想を学んで、広いものの見方をするというほうが、
   霊界から見ると正しいわけで、
   そう考えますと、法華経をはじめとする大乗仏教は、良い教えなのですが。

釈迦 私は中道と言いながら、禁欲を説き過ぎたからな。
   結局、本当に悟りを開くには、出家するしか無いと語って来た。
   それでは、在家者が救われぬ思いをするのは当然だ。
   大乗仏教は、在家者を救うための教えとして、生まれて来たんだ。

日蓮 お釈迦さまの名を語って、お経を書いているという点が問題なのですね。

戸田 生前、私は、大乗仏教は
   お釈迦さまの教えとは異なるものだという話は知っておりました。
   ですが、あえてそこに目を向けず、
   法華経はお釈迦さまの説いた教えと、主張して来てしまいました。
   そのほうがビジネスとして都合が良いからでございます。

戸田、日蓮、うなだれる。

(つづく)

権威主義

「権威主義」というのは、その人物や組織だけを絶対化することである。
この権威主義という考え方は、縁起論の対極にある。

私が創価学会を去ったのは、創価学会の権威主義にうんざりしたからである。

現在でも、ある人物や組織を「権威化」して、
他人を屈服させようという意図を感じると、非常に警戒するようになった。

ここで注意しなければならないのは、
「権威化」させているのは当人ではなく、「周辺」である事がよくある。

当人は、別に何とも思っていない。
熱心に努力しているだけである。
だが、周囲がその人物(組織)を権威化する事で、
虎の威を借る狐のように、自分をも権威付けるわけである。

創価学会は日蓮を権威化してこれを用い、
日蓮は法華経を権威化してこれを用いた。

私も、誰かに利用されているのではないかと、時々、心配になる事がある。
しばらく、創価に関する「おしゃべり」を続けて来た分だけ、口は達者になった。
かなりの人間も脱会させて来た。
決して「権威」になるほどの者では無いが、利用しようと思う人もいるかも知れぬ。

後で裏切りやすいのも、この手の人物かも知れぬ。
さんざんその人をおだてておいて、後で手のひらを返す。

だから、「権威」とされている当人よりも、
「権威化」のために利用している周りの人物を警戒したほうがいい。

「権威」とされる人や組織というのは、
「権威」とされるだけの歴史や専門性、社会的貢献があるのだ。
これまで、私は否定するわけでは決して無いのだ。
ここは、誤解しないでいただきたい。

問題なのは、その「権威」をかさに着て、他を排撃するという行為である。

なぜ権威化が行われるのか。

それは素の自分に自身が無いからである。
だから、何かを利用して、自分の鎧にするのである。
これにより社会的出世とか、成功とか、復讐をはかる。

暴力団も虎の威を借る狐の「虎」として利用されている。
ケンカの時「俺のバックには○○組がついているんだぞ」と。

Aという人間とBという人間がケンカしている時、
Aのほうがはるかに同情すべき点があると思っても、
Aが何らかの権威を持ち出した時点で、
どうしてもAを認める事ができなくなる。

「問題を一般化して他人を巻き込む」という事がある。

どこにでもある単なるケンカを、
あえて社会普遍的な問題とする事で、他人を巻き込もうとする。
そうすれば、「高級」な感じがするし、誰かの援護射撃を受けられる。

ケンカというのは、一般化せず、美化せず、他人を巻き込まず、
本人同士で血みどろの争いを見せれば良い。

当人同士のケンカを、わざわざ一般化して周辺を巻き込み、
おまけに権威まで担ぎ出す。

当人同士のケンカで済ませれば何でもないものを、
問題を一般化するから、グチャグチャして収拾がつかなくなる。

信頼関係というのは、構築するまで大変な時間がかかるのに、
一部の人間が周囲を巻き込んで大騒ぎして、
そこらじゅうに疑心暗鬼が充満し、
やがて、個人個人の信頼関係がズタズタに引き裂かれる。
世界大戦なんていうのは、こういう風に生まれるんじゃないのか。

こういう事は、偉そうに語っている自分自身にも思い当たるし、
誰だって、そういう経験はあるだろう。

私憤を公憤をごっちゃにしてはならない。
ごっちゃにすると、周囲を混乱させる。

その人に恨みがあれば、その人に直接言えばいい。
陰で色々言わない。
それができないところに、混乱は生まれる。

今後、文句のある人に対しては、直接、文句を言いに行こうじゃないか。

伏字でその場にいない人をみんなで攻撃したり、
「界隈の潜在的問題」なんていう一般化はやめよう。

ハンドルネームだって、コロコロ変える必要はない。
どんな人間だって、失敗はある。
だから、清濁合わせた自分の名前で勝負したほうがいい。

「チョンガー」

適当に付けたからしょうがないとは言え、自分でも嫌なハンドルネームだ。

別ジャンルではかっこつけて「三崎無我」にしてるけど、
創価問題を語る時は、嫌でもチョンガーで通している。
じゃないと、誰だかわからなくなるから。

これまでネットで出会った人は無数にいて、
そのハンドルをすべて覚えていられるわけがないけど、
さらに、ハンドルを変えてしまう人がいるから、
もう、絶体絶命に誰が誰だかわからない。
この界隈は、わしにはついて行けないところになった。

にも関わらず、ネットで色々なところを見ていると、
わしの知り合いみたいに言う人がいる。
わしがこんな事を言ったとか書いてるけど、
その人の事も、その言葉も、まったく覚えていない。

それでいいと思う人のほうが多いのかも知れないが、
やっぱり、これではどんどん混乱して行くだけなんじゃないか。

誰にでも失敗はある。
でも、「お互いさま」なんだな。
どんなことでも、「お互いさま」なんだ。

八葉の蓮華の如く

華厳宗というのは大変に面白い宗派で、華厳経というお経に基づいている。

華厳経では、大宇宙とは、たくさんの小宇宙の集積であるとし、
それぞれの小宇宙に一人の仏さまがいて、教えを説いているとしている。
それらの仏さまを象徴する「留遮那仏」という仏さまが、大宇宙の中心にいる。
このような信仰をしている。

小宇宙に一人いるという仏さまは、
それぞれの宇宙に合った教え(法門)を説く。
つまり、教え(法門)は無限にある。

留遮那仏は、すべての仏さまとその教え(法門)を象徴している。
これを「法身」(ほっしん)と言う。
留遮那仏の別名を「大日」と言う。
太陽の如く、あまねく照らすという意味である。

奈良、東大寺は華厳宗のお寺であり、有名な大仏は、留遮那仏である。
留遮那仏はすべての仏さまの象徴であるから、
どのような仏さまとも矛盾しない。
どのような宗派とも矛盾しない。

蓮華は八つの花びらによって出来ている。
この蓮華に例えるならば、留遮那仏は花の中心、
一つ一つの花びらは、各宗派である。
各宗派がすべて合わさって、はじめて一つの蓮華の花となる。

華厳宗の凝然大徳が二十九歳の時書いた、『八宗綱要』という優れた本がある。
当時の各宗派の教えを記した本だが、どの宗派も賞賛しているのが特徴である。

法然と、華厳宗の明恵という僧侶は、最初は大変に仲が良かった。
ところが、法然は『選択本願念仏集』と言う本を書いて、
念仏以外の教えはみな、否定してしまった。
これは華厳宗の教えとは正反対であり、
明恵は『摧邪輪』という本を書いて、これに抗議した。

法然にせよ、日蓮にせよ、排他的思想を有しているのが特徴だ。
自らの教えのみを正しいとし、他の教えを否定する。

仏教というのは「縁起」を説く。
物事は、あらゆるものの関連性によって生まれる。

この縁起からすれば、
すべての教えは互いに影響し合い、互いに補完しあっているのだ。

人もまた同じであり、あらゆる人が、それぞれの役割を果たしている。

インターネット上には、創価学会問題を扱う、数々のサイトがある。
これら、一つ一つは、みな、それぞれの役割を果たしているのであり、
どれか一つだけあれば良いというものではない。

それぞれ長所、短所、色々あるが、ぜんぶ合わせて一つと考えれば、これでいい。
完全なものなどどこにも無いのだ。
完全なものがあると思うところから、おかしな方向に行く。

日蓮宗に他教団をカルト呼ばわりする資格のあるなしや

日蓮は天台宗の僧だった。
地元清澄寺に飽き足らず、比叡山に登り、また諸宗を留学した。
この学問の中で、日蓮は「南無妙法蓮華経」という唱題こそ、
末法における正行なのだという法門を打ち立てたのである。

日蓮は32歳で立宗宣言したという事になっているが、
実際、32歳の清澄寺における説法は、
立宗宣言ではなく、あくまでも天台僧として、
「私はこのような勉強をさせていただいて来ました」と、
故郷に報告する場であった。

この場において日蓮は、
「世の中がこんなに不幸で生きづらいのは、他宗の責任である。
 他宗を信仰こそ、不幸の原因なのである。
 成仏するには天台の信仰しかない。
 なかんずく、南無妙法蓮華経と唱えるしかない。」
と言う持論を繰り広げた。
これにより、地元の反感を買った日蓮は、清澄寺を追われ、鎌倉に行く。

鎌倉に行った日蓮は、やはり大声で街道で大衆に向かい、持論を説く。

立正安国論を書いて、
幕府に対し、他宗の禁圧と国家をあげての法華経への帰依を嘆願する。

これらの行為があまりにも度を過ぎていると判断した幕府は、
日蓮を罰したわけである。

この日蓮の居た時代、極めて不安定な政情だった。
北条一族の中で内輪もめが続き、蒙古の危機が迫っていた。
国も豊かではなく、飢えに苦しむ民が多かった。

ここで日蓮が「自界叛逆」とか「他国侵逼難」とかやるわけだから、
幕府として目障りであるのは当然である。

当時、「カルト」という言葉は存在しないが、
もし、その時代に「カルト」という言葉があれば、
幕府は日蓮教団に対し、違いなく「カルト教団」と評価した事だろう。

日蓮自身は、幕府によって罰せられた事を

「正法だから迫害されたのだ。
 法華経に、この経を説く者は迫害されると書いてある通りだ」と考えた。

日蓮よりも時代は少し先であるが、法然もまた、日蓮と同様の事をやった。
「末法においては念仏以外は救われない」と説いたのである。
これにより、法然とその門下は、流罪、死罪等の責めを受けたのである。

信教の自由が徹底されている現在では考えられないが、
当時では、このように排他的な法門を説き、大衆を扇動する行為は許されなかった。

戦後、日蓮系から数々の問題教団が誕生したが、
実にその元凶は、日蓮の排他的教えにあるのだ。

現在、「日蓮宗」と言えば、総本山を身延山久遠寺に置き、
寺院数5,200ヶ寺、直系信徒330万人を抱える日蓮系諸宗派中の最大宗派だが、
この日蓮宗が言うには、

「日蓮聖人のは教え自体は悪くないのだ。
 悪いのは、日蓮聖人の教えを間違って伝えている創価学会や顕正会なのだ。」

ということなのだが、これは無理な主張だろう。

日蓮の思想は、あくまでも他宗を禁じ、法華宗を国教化する事だ。

布教方法も強引である。

  されば人是を用ひず機に叶はずと云へども
  強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり、
  是ならでは仏になる道はなきが故なり(法華初心成仏抄)

これをそのまま実行したのが創価学会、顕正会なのである。

墓さえ持っていれば安泰の、
寺檀制度の伝統の上にあぐらをかき、まったく折伏を行わぬ日蓮宗よりも、
創価学会、顕正会のほうが、日蓮の真意に叶っているのである。

日蓮宗は大衆の反感を買うのを恐れ、
日蓮の教えのうち、過激なものにはフタをして、無難なものだけ宣揚している。
これは一種の欺瞞ではないか。

それでいて日蓮宗は、仏壇の中央に日蓮像を置いて拝む。
日蓮を上行菩薩再誕、日蓮大菩薩として絶対化しているのである。
(そもそも日蓮自身が自分で自分の事を菩薩の生まれ変わりであると主張した)

私は日蓮仏法そのものを否定しているわけではない。
法華の中に密教を吸収してしまうような考え方も面白いし、
複雑性を廃し、単純性を追求するというあり方も良いと思う。

だが、宗祖も人なのだから、間違いは起こす。
間違いは間違いとして認めた上で、用いなければ、
自分達も同じ間違いを起こしてしまうという事なのだ。

日蓮宗の坊さんの説法などを聴いていると、
宗祖の間違いについて言及する者など、一人もいないし、
近代仏教学で否定されている五時八教を、今だに持ち出す者も多い。

日蓮宗は、創価学会、顕正会を生み出した母体としての日蓮正宗を非難するが、
宗祖絶対主義の呪縛から逃れられていない日蓮宗も、
いつ、創価学会、顕正会のような教団を排出するかわからぬ。

また、日蓮宗には霊断師会という組織があり、
ここでは、「九識霊断法」という占いをし、
「倶生霊神符」というお守りを売っている。
http://www.reidanshikai.jp/

私は別に、これはいいと思うが、見る人が見れば奇異に映るだろう。

奇異と言えば、日蓮宗の大本山に中山法華経寺と言うお寺があり、
ここには 大荒行堂があって、祈祷師を養成している。

毎年、真冬に行われ、毎日2時間の睡眠時間で、粗衣粗食。
水行、木剣、読経の修行に専念する。

祈祷師とは、法華経の力を借りて、生霊、死霊、畜生霊を退治するという、
文字通りの霊能者である。

大声の読経で声は潰れ、冷水で手足の肉が破れる。
毎年、死人が出るという凄まじさである。
http://news.d-nichiren.jp/docu.html

このように、日蓮宗は決して「常識的」な宗派ではない。
常識的宗派でないにも関わらず、常識的な顔をして、
他宗教を非難するのであれば、これは欺瞞だろう。

自己反省もできぬ者が、どうして他人を糾弾できるのか。

カルト問題に関するインターネットの役割

カルト宗教に関する問題は、本来、国家をあげて取り組むべきであるが、
残念ながら、今、現在、それができていない状況である。

「宗教的結社の自由」という事や、
宗教団体自体がスポンサーとなっていることもあり、
マスコミも、大きな宗教団体に関しては、なかなか手を突っ込んで行けない。

精神科医の世界、消費者センターなどでも、
積極的にこの問題に取り込んで欲しいが、
精神科医や、消費者センターのスタッフに、
問題となる宗教団体の信者がいる以上、これは期待しても無駄である。

カルト問題に対応する任意団体も存在するが、
その役割は極めて限定的なのではないかと思われる。

このような現状の中で、
比較的自由な言論が可能なインターネットが、必然的に重要な役割を果たしている。

その役割は、大きく分けて3つ。

一つは、啓蒙の場。

カルト問題を世間に知らしめる啓蒙の場としての役割である。

二つ目は、相談の場。

お金を取らず、しかも素早く、カルト問題に悩む人の相談に乗れる。

三つ目は、カタルシスとしての場。

カタルシスというのは、心理学において、浄化、排泄を意味する用語である。
例えば、鼻がつまっている場合、鼻をかめばスッキリする。

カルト問題によって、「悲しみ」や「怒り」を抱えてしまった人は、
その「悲しみ」「怒り」を吐き出す事で、精神の安定を取り戻す作業が必要だ。

ネットで、同様の経験を持つ人が集まる事で、
互いにカタルシスを行うという役割がある。

カルト問題を扱うサイトは、不特定多数のさまざまな人間が集まって来るため、
色々とやっかいな事が生じる。
中には、交流する相手とのトラブルで、さらに心に傷を受けるという人もあり、
こうしたサイトの存在、そのものが不要だという意見もある。
(なぜかサイト不要論を述べる者ほど、ネットの依存者であったりする)

だが、上記の役割に当てはめて考えるならば、
まず、通常のマスメディアが、カルト問題に対し、
消極的な報道しか出来ていない以上、
一体、誰がカルト問題を取り上げるのか。

また、「どうすれば脱会できるのか」などと言う問題について、
いちいち、お金を払って、
自称「専門家」のアドバイスを受けに行かねばならないのか。

さらに、自分の胸のうちの苦しみ、悲しみを、
相手の顔の見えぬインターネットだからこそ、
匿名で、安心して明かす事ができる。

これが、特定の場所に出掛け、アル中の集団カウンセリングのように、
カルト被害者同士でのミーティングを受けに行かねばならぬとするならば、
これは大変な事である。

もちろん、他のジャンル同様、カルト問題の世界においても、
ネットにおけるトラブルは避けられない。

トラブルがあるから、ネットにおけるこのような場を否定するという
極端な発想をするのではなく、
ネットにおけるトラブルの原因や対策というものに、
よく注意しながら、安全にネットを利用して行くという知恵ではないか。

カルト問題に関するサイトの運営者自身が、
マインドコントロールの影響をまだ思考の中に残してあり、
それゆえ、その人がカルト問題を扱う事自体が危険であるという意見もある。

もちろん、その危険は充分に考えられる。

だが、一方、マインドコントロールの影響をまったく受けていない人とは、
どういう人なのか。

たとえば、どのような宗教にも、カルト的要素があるのだ。

リアルの場において、カルト問題に取り組む人があるが、
そういう人も、何らかの宗教をやっている事が多い。
その宗教は「カルトではない」と明確に言い切れるのか。

また、宗教的マインドコントロールを受けた経験の無い人は、
宗教的マインドコントロールの実際が理解できない。
そういう人物が、果たしてどこまで、この問題に貢献することができるのか。

自分もガンにかかっている医者は、
自分がガンであればこそ、ガン患者の気持ちがよく理解できる。

同様に、自分がマインドコントロールでさんざん悩んで来たからこそ、
自分と似た境遇の者に、心のこもった言葉がかけられるのである。

ネットというのは、面白いところで、
あまり「異常」な人のところからは、自然に人が離れて行く。

心配しなくても、マインドコントロールの影響を強く残し、
発言がヤバイ人のところには、自然に人が来なくなるのである。

以上、カルト問題において、ネットが果たす役割が大きいと書いて来たが、
カルト問題というのは、人の根底の生き方に関するテーマである以上、
それだけ「感情的」になりやすい。

この手のサイトに関する「警鐘」は、半分は当たっているのである。

「感情的」になった結果、数々のトラブルを生み出す。
このトラブルは、イデオロギーをテーマとするサイトと同じか、
それ以上に多いかも知れない。

だから、単なる趣味的なサイトと同じような気分で参加していると、
思わぬトラブルに巻き込まれる可能性もある。

まず第一に、サイト管理者の見識が問われるのは当然であるが、
トラブルに巻き込まれないように、参加する場合の注意点を述べたい。

過去ログの内容と重複せぬよう、
ここでは、「こういう人には気をつけて」という視点で列挙したい。

1.他宗教への勧誘を目的とした参加者がいる。

参加者というのは、掲示板等の参加者であるが、
他宗教に誘導するために、参加して来ている人がいる。
だが、これはさほど深刻ではない。
発言内容からすぐに気づく。

2.趣味で参加している人がいる。

その宗教と何の関係もないのに、趣味で顔を出す人がいる。
こういう人は、2ちゃんねるなどに多い。

また、かつての「相談者」で、その掲示板に参加することが面白くなり、
ほとんど趣味になっている人もいる。
「人の不幸は蜜の味」と言うが、
悩んでいる人の話を聞く事が、愉快でしょうがない。
近所の「おせっかいおばさん」のようなタイプである。

こうした趣味で参加してる人は、最初、相談に乗っている時は親切だが、
付き合っていると、次第に嫌気がしてくる。

3.カルト問題に異常に熱心な化け物がいる。

これは私の事だ。

普通、人は無料で他人の相談に乗り続けたり、研究したりしないものだ。
良くも悪くも「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」であり、
だからこそ、次々に新しい人生のテーマを作って、愉快に生きて行ける。

どのような分野でもそうだが、
一円にもならぬのに、一つの問題を究明し続ける人というのは、
どこか「異常」なのである。

私はかつて、吉田松陰という人物を尊敬している。
この吉田松陰は「狂」という思想を説いた。
「狂」でなければ、大事は成す事はできぬと言う思想である。

吉田松陰自身、「狂」を貫いた人で、
アメリカ船に無許可で乗り込もうとしたし、テロ計画を立てた人物である。
役人に「あなたはテロ計画を立てましたか」と尋問され、
正直に「ああ、そうです」と答え、処刑された。

この吉田松陰の弟子に、幕府を倒す先駆けとなった高杉晋作や、
新政府の数々の中心人物が存在する。

「狂」であればこそ、一つのテーマを貫ける。
そこで、私は創価学会問題に関しては「狂」である事を決めたのである。

ネットの中で、専門知識を持った人がいる。
別に、それを仕事としているわけではない。
他に生業を持ちながら、その問題に異様に詳しい。
そういう人間が「化け物」だ。

何か疑問があれば、その化け物に相談すると、
金品を要求される事もなく、即座に、かつ、的確な回答が返って来る。

だが、非常に「不気味」な存在である。
あまり近づくと、悪い影響(共依存など)を受けるような気もする。

実際、悪い影響を受けるかどうかは、その「狂人」による。

吉田松陰も、弟子にテロ行為を要求したのである。
狂人には、似たような性質を持つ人は多い。

そう言えば、日蓮も「狂」だったな。

4.サイコパスな人がいる。

「サイコパス」とは「性格異常」という事で、その特徴は

(1)良心の異常な欠如
(2)他者に対する冷淡さや共感のなさ
(3)慢性的に平然と嘘をつく
(4)行動に対する責任が全く取れない
(5)罪悪感が全く無い
(6)過大な自尊心で自己中心的
(7)口達者で浅薄な魅力

ジャンルを問わず、ネットにはこのような人物が徘徊していて、
悪意がある、なしに関わらず、「荒らし」を行う。

「そのサイトにおける話題は、そのサイトに留める」のが常識だが、
サイコパスはそんな事、気にしない。
他のサイトで、どんどん、悪口やら何やらをやらかす。

サイコパスはしばしば、「ネットストーカー」と化す。
いつまでも、その人物について回るのである。

ストーカーと言っても、「恋愛」の事ではない。
悪意を持って、付け回すのである。

その人物が記事を書けば、必ず、コメントに嫌味を残す。

その人物が、どこの掲示板に書き込んだかとか、すべてチェックする。
そして、悪意を込めた反論を成す。

反論のための反論であるから、中心思想はない。
意見は、コロコロ変わる。

以上、列挙してみたが、誰が異常な人なのか、
なかなか見分けがつかない場合がある。

ハンドルネームをコロコロ変え、そのたびに別人格を演じる人もいるからだ。

だから、大切なのは、だいたい、誰にも異常性があると見る事なのだ。
「この人はサイコパスかも」「この人は狂人かも」という目で見るのだ。
そういう危機感を持って、交流することが大事なのだ。

所詮、ネットなのだ。

もっと深い交流をしたいと、うかつにオフを願い出ると、
そこからとんでもないハプニングが起こる事もある。

オフが絶対にダメだとは言わないが、
極端に言えば「この人ならば騙されてもいい」と思えるような相手でなければ、
会わないほうが無難である。

顔が見えないとどうしても嫌だという人は、
費用はかかるが、カルト問題を扱う団体に行ったほうがいい。

また、他人ばかり責めるのではなく、
自分にだって、何らかの異常要素があるはずだ。
常に自己反省しながら行きたい。

そして、もう一つ、重要なことをあげておこう。

5.サイト管理者は未熟である。

これは、100%そうである。

カルト問題ばかりではなく、インターネットサイトの管理者はみなそうだ。
未熟な人間がやっているということである。
だから、きめこまやかで、適切な管理を要求しても無理。
平等な対応を要求しても無理。

管理人だって、主義主張や人の好みがある。

自分の主義主張に近い参加者を重んじたり、
好きなタイプの参加者を大切にしたり、
新参者よりも昔からそのサイトに協力してくれて来た
古参の顔を立てようとするのは当然である。

サイトとは上手に付き合い、潮時と思ったら、去るべし。

かく言う私が一番、サイトの管理が苦手であり、
私がこれまでやって来た掲示板は、すべて休眠状態となってしまった。
狂人管理人の主催する掲示板など、人が寄りつかぬのが当然である。

それでも、相変わらず、ほぼ毎日、メールでの相談を受ける。
ある意味、ありがたいことである。

だが、私は未熟な人間であるから、相談に対する回答が、適切であるとは限らない。
その回答通りに実践し、事態がかえって悪化することだってある。

だから、私だけの意見だけではなく、色んな人の意見を聞いて、
最後は自分でゆっくり考えて結論を出して欲しいと思う。

ネットには問題がある。
でも、私はネットの力を信じる。

カルトですけど何か?

無神論者にとっては、宗教自体がカルトと言う事になる。

「神」や「仏」という科学的にも経験的にも存在が証明できぬ概念を持ち出し、
これを拝めと言っている事自体、尋常な事ではないと無神論者は思う。
「神」や「仏」と言う言葉を「宇宙生命」や「宇宙のリズム」と言い換えたところで、
無神論者はやはり同じような感想を持つだろう。

私自身、脱会したものの、仏教の信仰自体は放棄したわけではない。
メールマガジンまで書いて、仏教思想を普及までしている強烈な仏教信者である。

そして、その思想は原始仏典や禅などと言う、常識人にわかりやすいものではない。
神仏の実在を強調する、無神論者が見れば決定的に痛い内容である。

宗教団体こそ持ってはいないが、
特定の宗教思想を広めているという点では、宗教団体と同じである。

だから、無神論の人から見れば、私はカルトに見えるだろう。

この国には「カルト」の正式な定義はないので、
どういうものを「カルト」と呼ぼうが、その人の勝手である。
これに対し、「いや、私はカルトではない」などと反論する気力もない。

カルトと思う人間は、カルトと思ってくれれば良い。

人が何かを警戒するという事は、その人なりの経験の上からの防禦反応なのである。
だから、警戒するという行為は、重要である。

自らの経験を活かしたいという意味で、
私はHP上で創価学会問題に関する相談に乗っている。

このような相談に応じている場が、
ネットに限らず世の中全体で少ないので、
私のところに非常に多くの相談が来て困った時期がある。

そこで、あえてHPにおいて、私の「カルト性」をアピールして、
相談者を極力減らすようにした。

  だから、創価学会への執着を、解いてやらねば成仏しない。
  そのためには、南無阿弥陀仏と称えること。
  そうすれば、阿弥陀如来の力で、亡者の執着を取り除くことができる。

このように書いておけば、
余程、悩んでいる人でなければ相談しに来ないだろうと思った。
ある程度、功を奏したと思うが、
やはり「余程、悩んでいる人」がいて、相談しに来るのである。

阿弥陀信仰を説く人間であっても、創価よりはマシと思うのだろうか。

私をカルトと呼ぶ人がいる。
体型も江原啓之に似ている。

下の植島啓司の説くマインドコントロールのテクニックを読んでも、
「ああ、これってわしのことじゃん!」と思い当たる所もある。

そんなわけで、危機感を持つ人は、私を回避することをお勧めするが、
それでも、「毒をもって毒を制したい」という意図をもって接近する人は、
注意深く、寄って来ていただきたい。