スポンサーサイト

  • 2008.03.19 Wednesday
  • -
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


カルト、マインドコントロール論は自己の目覚めのために用いる

現在、わが国では創価学会公明党が政府与党となっている。
また、自民党の国会議員には、
統一教会などの宗教団体と親密な関わりを持つ者も多い。

このような状況の中においては、国家として、カルト問題に取り組む事は難しい。
もし、そういう事が行われたとしても、
創価学会や統一教会などが、カルトの対象とされないような方向に
話が流れて行ってしまうだろう。

文部科学省には「宗教法人審議会」なるものが設置されている。
これは、宗教法人に関する認証などについて調査審議する有識者会だが、
このメンバーのほとんどは宗教団体の人間である。

宗教法人法によると

  委員は、宗教家及び宗教に関し学識経験がある者のうちから、
  文部科学大臣が任命する。(第七十二条2項)

となっているが、選考の基準が明記されていない。

今現在、創価学会から委員が出ていないのが不思議なくらいであるが、
これがいつ出てもおかしくない状況である。

こうした事柄から考えても、国はカルト問題について、
まるで消極的であると言わざるを得ない。

国内には、カルト問題に取り組むグループも存在するが、
これはあくまでも私的な存在に過ぎない。

つまり、わが国においては、
「カルト」「マインドコントロール」というものに対する
統一的な考え方が存在していないのである。

「カルト」「マインドコントロール」に関する書籍は出版されているが、
あくまでも個々の学者の見解であり、絶対的なものではない。
(これを絶対的なものと扱えば、それこそ宗教的原理主義に近い)

もし、カルト、マインドコントロールに関する、
国家的に承認された見解があれば、その見解をもって
「あなたの宗教団体はカルトである」と指摘できる。
だが、現状では、カルト、マインドコントロール論をもって、
特定宗教団体を裁定する事は困難なのである。

創価学会は顕正会をカルト団体であると指摘しているが、
外部の者には、創価学会と顕正会も同じようなものにしか思えない。

日蓮正宗は創価学会をカルト団体であるというが、
外部の人間は、創価学会を生み落とした日蓮正宗にも、
同質のものがあると考えているのである。

日蓮宗から見れば、日蓮正宗も、創価学会も、顕正会も、
みなカルト団体という事になる。
だが、日蓮の教義そのものにカルト性があると指摘する声もある。

かつて日蓮は、執権の北条に対し、立正安国論という書物で
法華経を国の教えとするように諫言した。
この中で、邪宗は武力をもって滅ぼしても構わないと論じている。
幕府に対する進言なのであるから、冗談や例え話で済む問題ではない。
http://park5.wakwak.com/~soka/risshou.htm

四箇の格言(念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊)で攻撃された諸宗は、
未だに日蓮宗を快く思っていない。

カルト、マインドコントロール論が国として定まっていないがゆえに、
どうしても、このような問題が生じてしまう。

宗教学者の植島啓司による「宗教学講義」という本がある。
この中にマインドコントロールのテクニックについて書いてある。
ポイントを抜粋すると

1.相手にテキストを無料で渡したり、映画・ビデオを見せに連れて行ったり、
  「災いをとるために祈ってあげたり」する。

2.隔離された場所に連れ込んで、他人と接触する機会を剥奪する。

3.外部の情報を遮断して、相手にとって都合のいい情報だけを注入する。

4.相手を徹底的に褒めちぎることによって心を開かせたり、
  または逆に、内的な秘密を告白させて罪や恥の意識を強め、
  それまでの自分を否定させ、従来の価値観を崩壊させる。

5.プライバシーを剥奪して、物事を自由に考える機会を与えないようにする。

6.他のメンバーとの共同意識を高め、集団の一員であることを自覚させる。

7.街頭などで他人に署名やアンケートを求めさせたり、
  勧誘・説得させることで、自己の信念を強固なものにさせる。

8.自分の信念や思考を首尾一貫したものにしたいという欲求を利用して、
  教えを段階的にインプットしていく。

9.新しい呼び名(「ホーリーネーム」)を与えたり、
  集団内部にしか知られない事柄を打ち明ける。

10.食事や睡眠を極端に制限して、思考停止の状況に追い込む。

11.日常的な動作(座る、唱える、歌う、書く、歩く、など)を
  単調に繰り返させる。

12.通常とは異なる身体動作を強いる。

13.薬物の使用によって「神秘的な体験」をシュミレーションさせる。

14.さまざまなセッションやメディテーションを通じて死を再生を疑似体験させる。

15.全財産を寄進させ、それまでの社会的地位を捨てさせ、
  経済的にも社会的にもその集団に依拠せざるを得なくする。

これによると、すべての宗教にカルト的要素があるという事になる。

それを主張する者の宗教に対するモノの考え方によって、
何をもって、カルト、あるいはマインドコントロールとするか、
という事が変わってしまうのが、わが国における現状なのである。

だからと言って、カルト、マインドコントロール論が無意味なのではない。
カルト、マインドコントロールについて学ぶ事自体が、
宗教問題に取り組む時に、非常に重要となる。

カルト、マインドコントロール論における金科玉条のようなものは存在しないが、
カルト、マインドコントロール論の知識を反省的に用いる事で、
自分自身の「目覚め」につなげる事が可能である。

くれぐれもよく注意しなければならないのは、
相手を特定教団のマインドコントロールから解放するという名目で、
別個のマインドコントロールをかけ、
自分の宗教に勧誘させてしまうという者が存在するという事である。

先日の記事でも書いたが、自分が創価学会員である事を隠し、
顕正会を糾弾するサイトも複数、存在する。

つまり、現在のプログラムを削除して、
新しいプログラムの再インストールするという行為である。

「脱マインドコントロール」の名のもとに、このような行為が行われるのは
大変に恐ろしい事である。

また、「脱マインドコントロール」という事を、
商業的に行おうとする者も、今後、出てくる可能性がある。

2世、3世が創価学会を脱会すると、
子供の頃から植え込まれて来た
「脱会すると不幸になる」という概念が頭をもたげ、
不安に襲われる、という事がある。

日蓮は退転した弟子に対し、念仏以上の無間地獄に堕ちると糾弾したが、
創価学会においては、ことあるごとに、こうした話を聞かされるのである。

この脱会者の不安感に乗じ、
「カウンセリングを受けなければ正常な感覚に戻れない」とし、
カウンセリングを受ける事を強要する者が、将来、出ないとは限らない。

そもそも、脱会すると不幸になるかどうかと言うのは、
「カウンセラー」なる者が、どんなに言葉を費やしても、
真偽を明らかにする不可能である。
それは「宗教的事柄」なのだから。

ただ、脱会し、しばらくすると、脱会したからと言って、
特別、何も不幸な事が起こらないと理解できるし、
また、ネットなどで、同じく脱会した者と交流すると、
不幸になるどころか、脱会によって精神的に解放され、元気になり、
仕事にプライベートにエネルギッシュに取り組んでいるという者にも接触できる。
つまり、マインドコントロールによる不安や思考のゆがみは、時が解決するのである。

中には、マインドコントロールにより、心に病的なものを抱えてしまう人もいる。
対人恐怖、強迫神経症、うつ病、統合失調症など。
こういう者が相談に行くべき場所は、精神科である。

「マインドコントロールの二次被害」という言葉がある。

別宗教による勧誘を目的とした相談行為。
脱マインドコントロール商法。
こういったたぐいのものには、よくよく注意しなければならない。

「カルト」「マインドコントロール」という言葉について

創価学会問題について言及される時、
しばしば「カルト」「マインドコントロール」と言う言葉が用いられる。

だが、この「カルト」「マインドコントロール」と言う言葉には
明確な定義と言うものが存在しない。

そもそも、あらゆる「言葉」は定義というものがなく、
国語辞典に載るのは「一般的に、この言葉はこのように使われている」
と言う事例に過ぎない。

だが、学術の世界においては、
個々の学者がまちまちに言葉を使っていては、
論議を行う事が不可能となるので、定義を定める努力が成されている。
(特に自然科学の世界では用語の定義は重要となる)

「カルト」「マインドコントロール」と言う事柄は、
社会において大変に重要である。

このテーマは、心理学、社会学、宗教学の分野になるのではないかと思う。

だが、心理学、社会学、宗教学のいずれにおいても、
「カルト」「マインドコントロール」と言う言葉の定義化は出来ていない。

それもそのはずである。
心理学、社会学、宗教学のいずれの世界にも、
社会的に問題視されている宗教団体の信者が入り込んでいるからである。

「カルト」「マインドコントロール」と言う問題については、
本当ならば、政府や行政が率先して立ち向かわねばならない。

だが、やはり政府や行政にも、
社会的に問題視されている宗教団体の信者が入り込んでいる以上、
これを求めるのは不可能と言わざるを得ない。

カルト問題に対応する団体が世の中に存在しないわけではないが、
この団体は「公的」なものではなく、あくまでも「有志」の集まりに過ぎない。
そして、その構成メンバーも、宗教団体関係者が多いのである。

カルト問題に専門に対応する「カウンセラー」と言う存在も、
国家機関が公認するものとしてはこの世の中には無い。
カルト問題に関する「カウンセラー」と言う者が存在したとしても、
それは、あくまでも任意団体が認定したものに過ぎない。

「カルト」「マインドコントロール」について説明した本も世の中にはあるが、
その本も、学術団体や国家機関による見解を示したものではない。
あくまでも、「その著者の見解」に過ぎない。
だから、これを金科玉条のように用いる事もできない。

この世の中で、「カルト」「マインドコントロール」の定義付けが成され、
この問題について、政府、行政が健全に取り組むようになるのは、
公明党と言う政党が消滅し、
あらゆる政党が宗教団体とのしがらみを断った後の事だろう。

だから、我々が「カルト」「マインドコントロール」と言う言葉を
大上段にかざして創価学会を糾弾する事はできない。
この言葉は学術団体や国家機関による後ろ盾を持たぬのだ。

「カルト」「マインドコントロール」という言葉は、
国内のいずれの学術団体、国家機関においても、定義化されていないのである。
国外ではそうしたものが存在するかも知れないが、
国内と国外では文化が異なるため、それを国内に持ち込む事はできない。

にも関わらず、「カルト」「マインドコントロール」と言う言葉が、
現在、いたるところで非常に簡単に使われている。
もちろん、それを用いる者によって、定義が異なっている。

この風潮により、どのような人物、団体も、
他人から「カルト」扱いされる可能性を持っている。

(創価学会では顕正会の事を「カルト団体」と呼んでいる)

我々は、「カルト」「マインドコントロール」と言う言葉の使用について、
もっと慎重になったほうがいいと思う。

かく言う私も、「カルト」「マインドコントロール」と言う言葉を、
ごく当然のように使って来た経緯がある。
だが、それは間違いであった。
それに気づいてからは、私はかなりこの言葉の使用については慎重になっている。

「カルト」「マインドコントロール」と言う言葉を用ずに、
もっと具体的に、その教団の悪事を説明したほうが、丁寧でもある。

「創価学会はカルトです」と書くのではなく、
なぜ、創価学会に問題があるのかという事を具体的な事実を示して書かねば、
何の意味もないし、読者にも不親切になってしまうのだ。

「創価学会はカルトです」と書くのは、
「池田大作はクソです」と書くのと、何も変わらない。

「池田大作はクソです」と書くのが「クソアンチ」なのだ。

だが、「カルト」「マインドコントロール」と言う事について、
論議を積み重ねて行く事は重要な事だ。
公的な定義こそ無いものの、宗教団体のもたらす種々の問題は、
やはり「カルト」「マインドコントロール」問題なのだ。

カルトとは何か。
マインドコントロールとは何か。
こうした事を、互いに論議し、宗教問題を考察して行く事は重要な事である。

リンクについて

このブログのリンク、ご紹介は
どなたでも自由に行っていただいて結構です。

批判的な引用であっても構いません。

記事を単独で紹介していただく場合は、記事タイトル下の時間の所をクリックし、
その時に表示されるURLを使ってください。

創価学会員の勧誘行為は「思いやり」によるものではない

「折伏(創価学会による勧誘行為のこと)は慈悲の行為」

創価学会では、一往、こういう事になっているが、
私の活動家経験から言えば、慈悲の心から折伏する者など居ない。
「慈悲の行為」と言うのは、慈悲心によって折伏するという意味ではない。
折伏そのものが、慈悲の行為と言う事。
つまり、慈悲の気持ちを持っていなくても、
その行動自体が慈悲になっている、と言う意味なのだ。

これは私が勝手に言っているのではない。
創価学会において実際になされている指導である。

創価学会の活動においては「数値目標」が重視されている。
「今月、うちの地区では三世帯の本流(入会させること)を達成します!」と。
この目標は、もちろん、地区の活動家が背負う事になる。
(地区と言うのは、だいたい、町内会規模の組織)
一番キツイのは、青年部である。
創価学会では常に青年に「期待」されているからだ。

その地区において、青年活動家が二,三名しかいないところは、めずらしくない。
つまり、プレッシャーが青年活動家にモロに被る。

こういう状況においては、慈悲の折伏などやってる暇はない。
釣りやすい魚から釣るのが一番。
恋人とか、会社の部下とか。
つまり、断りにくい相手だ。

創価学会員の特徴は「慈悲」と言いながら、相手を侮辱するところ。

「あなたが貧乏なのは宿業のため」
「あなたが病気なのは宿業のため」
「あなたの家族が不幸なのは宿業のため」
「あなたがブスなのは宿業のため」
「これはあなたが憎くて言ってるんじゃないのよ。
 あなたを思って言ってあげているのよ。」
「この宿業の鎖を断ち切るには、創価学会の信心しかないの。」
「創価学会でみんな宿命転換しているのよ」

これが慈悲の言葉なのだろうか。

そもそも、この言葉が正しければ、創価学会員はみな幸福なはずである。
でも、隣のガッカイインさんは幸福そうには見えない。
勧誘して来るアナタも。

そう言えば、公明党って、政権与党じゃない。
今や創価学会は、公明党を通じ、国政を握っているんだよね。
だったら、この国を宿命転換してくださいよ。
お願いしますよ。

なんか、公明党が与党になってから、
どんどんこの国が悪くなっている気がする。

冬柴国交大臣・・・宿命転換された顔か?

勧誘されている人というのは、だいたい、こんな事を考えているものである。

慈悲から折伏すると言うのならば、もうちっとマシな言い方がある。
創価学会の折伏は、一般に「カルト的手法」と言われるもので、
相手の不幸の原因を、宗教的事由に結びつけることで、恐怖心を煽り、
勧誘するための手口である。

決して、慈悲じゃあない。

創価学会員が慈悲で勧誘して来る事はない。

創価学会員の「あなたのことを思って」と言う言葉は、「言い訳」でしかない。

勧誘時のみならず、勧誘が失敗した時や、会員が脱会した時も、
彼らは「慈悲の言葉」を吐く。

「交通事故に遭わないように帰ってね」
「今はまだあなたはわからないのよ。十年後に仏法の恐ろしさを思い知るでしょう。」
慈悲にかこつけて言えば、何を言っても許されると彼らは思っている。

私もかつては創価学会員だった。

創価学会員であっても慈悲の気持ちはもちろんある。
困った人を助けたいとも思う。
友人として、信心の話を抜きにして相談に乗っている間は、
自分の中にも慈悲を感じる。

だが、相手が「カモ」だと感じると、即座に折伏に切り替える。
その時点では「慈悲」など無い。
「慈悲があるフリ」をするだけだ。

迷惑をかけた人々には、お詫びしても尽きない。

折伏する前は慈悲があったはずなのに、
折伏がはじまると慈悲が消えて無くなる。
何としても、釣り上げたい。
そこに執着が始まるからだ。

創価学会員にも慈悲がある。
でも、勧誘行為が始まると、不思議と慈悲の念は消えるのだ。

彼氏に折伏されている人。
会社の上司に折伏されている人。
その折伏は「慈悲」によって行われているのではない。
創価学会員が折伏を行う時、脳裏にあるのは「成果」の二文字だけである。

「あなたの幸せを思って」

創価学会員のこの言葉は絶対に信用してはならない。

邪悪な勧誘をハッキリと断ろう。
そうすればあなたは相手から「慈悲」と言う名の呪いの言葉を聞く事ができる。
その言葉を聞けば、目が覚めるだろう。

創価学会の正体は「呪い」の教団である。

埼玉対決を観て

http://video.google.com/videoplay?docid=3886730687576367387

創価学会の長谷川さんと言う方もまた、私見を述べる人だった。

創価学会が日蓮正宗と対峙する場合、
法門をもってすれば負けてしまう。
だから「私見」と言うところに逃れようとするのだろう。

今回は「三宝」と言うところから話が始まるのだが、
長谷川さんはいきなり、三宝の解釈を我流でやってしまった。

これでいいのか?創価学会。

長谷川さんの三宝解釈にご興味のある方は、動画をご覧いただくとして、
三宝が何だかわからん人のために、ちょっと予備知識を。

三宝は「仏宝」「法宝」「僧宝」と言って、
仏教において、いずれもかげがえのないものとされている。

この三宝がそれぞれ何を示すかということは、宗派それぞれ異なる。

仏教の基本的解釈としては、「仏宝」とは如来。
「法宝」とは教え。
「僧宝」とは教団。

如来と教えと教団の事を三宝と言う。

問題になるのは、この「僧宝」と言うもの。
元々、「僧」とは「僧伽」(サンガ)であり、「教団」の意味。
この中には、出家在家の区別はない。

ところが、日本では、いつの間にか「僧=坊さん」になってしまい、
「僧宝」が「坊さん」の意味に解釈される事が多くなった。

現在、創価学会と日蓮正宗の三宝解釈論争の要も、ここにある。

日蓮正宗の伝統教義としては

仏宝・・・日蓮大聖人
法宝・・・南無妙法蓮華経
僧宝・・・日興聖人

となっている。

正宗側の考え方は、教理の上では僧宝を日興聖人としているが、
これは日蓮大聖人から日興聖人へと通じて行く血脈を示しているのだから、
この中には代々の法主も自ずと含んでいると言うのである。

創価学会は、法主のすべてが正しく法門を受け継いでいるというのはおかしい。
それに、僧宝とはもともと、教団の意味なのだ。
正しい教えを受け継いでいる教団こそ、僧宝と言うべきだ、と言う主張をしている。

僧宝のもともとの意味を考えると、創価学会は正しい。
だが、創宗分離以前の創価学会は、正宗と同じ考え方をしていたのである。
正宗と同じ考え方をしていた以上、この僧宝を創価学会とする考え方は、
新義、すなわち、邪義と言われても仕方ない。

だから、世間的にはこの新しい三宝論を自信を持って言えたとしても、
正宗の前で主張するのは、どうしても腰が引けてしまうのである。
自分達が昔主張していた事は、間違いだったと認める事になるのだから。

創価学会と言うところは、「過去の失敗」を決して認めたがらないのだ。

長野法論を観て

今回は「対論」ではなくて「法論」だった。
つまり、互いに脱会、脱講をかけている。

内容については具体的に述べないが、
創価、宗門骨肉の争いが表現されているので、
時間のある人は観てみると良い。

創価学会側の新階さんが、ヤケに熱くて、最後は暴走してしまうのであるが、
文証を持って挑もうとしている姿勢は評価できる。

「おい、僕の目を見てみろ!」のひと言は感動した。

この動画は法華講側が作っているので、法華講側が編集している。
また、悪意あるテロップが流れている。

最後に「この法論で一人の学会員が日蓮正宗に帰伏された」とある。
「帰伏」と言うのは、「帰順」と言う語意なのだが、
おそらく、脱会したわけじゃなくて、「破折された」と言う意味だろう。

http://www.findinternettv.com/Video,item,979450628.aspx

(23日加筆)聴衆の誰かが脱会したのかも知れないな

長野対論を観て

YouTubeで「創価学会」と検索すると、さまざまな動画に遭遇するが、
その中に「長野対論」と言う動画があった。

創価学会員と日蓮正宗法華講員が法門について議論しているのを記録している。

創価学会側は、沖浦克治さんと息子の沖浦耕治さん。
法華講員側は、樋田昌志さんと山下宏さん。

ネットでの議論の末に実現したのが、この「対論」だと言う。

私は、創価学会にも日蓮正宗にも、
ひいては日蓮教義そのものにも問題があると思っているので、
創価学会、日蓮正宗どちらに思い入れることもなく、客観的に観させていただいた。

この「対論」の特徴は、樋田昌志さんが御書(日蓮遺文)を持って
日蓮正宗と創価学会の正邪を判定しようと言うのに対し、
沖浦克治さんは、日蓮正宗と創価学会は他宗なのだから、
お互いに好きにやればいいのではないか、と言う姿勢で応じているところだ。

昔、公場における法論と言うものは、互いに敗れたほうが、
自らの宗派を離脱し、相手の宗派に入るという事を前提で行われた。
「敗れる」とはつまり、反論の言葉が出なくなる、と言う事である。
議論はあくまでも経文に照らし、行われた。

樋田さんは、どちらかと言えば「法論」と言う姿勢で今回の議論に挑み、
沖浦克治さんは、どちらかと言えば、
気軽な「対話」と言う姿勢で向き合っていたような印象を受けた。

樋田さんは文証(御書)をもって、法の正邪をつけようとするのに対し、
沖浦克治さんは、日蓮正宗にとって、創価学会は他宗なのだから、
他宗のやっている事に口を出すな。
あんた達はあんた達の好きなようにやればいいでしょうと言う立場をとる。
だから、まるで話が噛み合っていない。

公の場で 遠い所から聴衆のかたがたに集まっていただいている以上、
私はこれは「法論」だと思う。
負けたら創価学会を辞めなさい、日蓮正宗を辞めなさい、
という事まではしなくても、
法論として、文証に基づき、正邪を論ずるべきであると思う。

聴衆は遠い所、金と時間をかけて「私見」を聴きに来ているわけではない。
「創価学会の考え方」「日蓮正宗の考え方」を聴きに来ているのだ。

こういう場においては、「私の個人的な考えですが」とか、
「私見ですが」と言う事自体がナンセンスなのではないかと思う。

この点、樋田さんにも甘さがあると思う。
樋田さんも、宗門の公式見解を持って、この場に来ていなかった。
事前に、今回論じ合うテーマについての公式見解を、
宗門にたずねてから、この場に挑むべきであった。
それをしてこなかったことにより、沖浦克治さんの
「のらりくらり」戦法を許してしまった。

今回の対論のテーマは、御本尊の開眼は必要か否か。

創価学会も日蓮正宗も、曼荼羅を拝んでいるのであるが、
日蓮正宗の場合、印刷した曼荼羅は、
法主が開眼し、然る後に信者に下附するという事になっている。

創価学会の場合は、少なくとも、誰かが開眼してくれると言う事はない。

樋田さんは、御本尊には開眼が必要であると言う主張を、
以下の御書の一文から行う。

  詮を以て之を謂わば今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずし
  て権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の
  非情の草木にも非ず魔なり鬼なり、真言師が邪義印真言と成つて木絵二像の意
  と成れるゆへに例せば人の思変じて石と成り倶留と黄夫石が如し、法華を心得
  たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其
  の身に鬼神入るが如し(木絵二像開眼之事)

それに対し、沖浦克治さんは、この御文は、木絵二像に関して言っているだけで、
文字曼荼羅は別だと反論する。

確かに木絵二像について書いてあるが、
文字曼荼羅にも開眼を必要とするというのが日蓮の考えだと
類推するのが自然ではないかと思う。

この点、樋田さんの主張のほうが分があると感じるが、
いかんせん、樋口さんは事前に宗門に公式見解を確認して来ていない。
だから、その分、説得力を失ってしまった。

二人のやり取りについては、実際に動画をご覧いただきたいが、
最終的に私が思った事は二つある。

一つ目。

もともと創価学会は日蓮正宗の信徒団体であり、
日蓮正宗の教義が正しいと主張して来た。
ならば、少なくとも、
自分達が正しいと主張して来た日蓮正宗の伝統的教義については、
否定する事はおかしいのではないかと言う事である。

日顕前法主の言う事が間違っていると主張するならば理解できる。
だが、日顕以前から存在していた、日蓮正宗の教義を否定するというのは、
とても理解できるものではない。
昔の創価学会はその教義を正しいとし、その教義をもって布教したり、
日蓮宗などの他宗派を攻撃して来たのだから。

「人の言う事は変わります」と沖浦克治さんは述べていたが、
宗教団体と言うのは、生き方の根本である教義を提供している。
カレー屋がカレーの味付けを変えるのとはワケが違う。
それも、年間、何十億か何百億を集めている宗教団体である。

それでも、教義が変わる事もあるだろう。
ならば、ちゃんと教義が変わった事を、わかるように説明して、
以前の教義を主張して迷惑をかけた相手には、詫びるのが筋だろう。

カメレオンが徐々に姿を変えて行くように、
会員に気づかれぬように教義を少しずつ変え、
さんざん攻撃して来た他宗派、他宗教の人々と、平然と握手しようとする。
「昔、あなたたちを攻撃してしまったのは日蓮正宗のせいです」と。

こんな人を馬鹿にした事があっていいのか。

二つ目。

創価学会は過去、日蓮正宗の絶対性を主張して来た。
それが大人の事情で分裂してしまった。
分裂以降、自分達が「これが無ければ人類は幸せになれない」と主張して来た
本門戒壇大御本尊も拝めなくなった。

曼荼羅は法主が開眼しなければ功徳が無いと自分達も主張していたのに、
法主と縁が切れたので開眼が出来なくなってしまった。

法門に基づく以上、正宗とケンカすれば、創価学会のほうが負ける。

沖浦克治さんが創価学会の公式見解によらず、
専ら「個人的見解」として述べているのは、
この問題についての創価学会の公式見解が、
不充分であるか、あるいは存在しないからである。

宗門分離以降、創価学会は教条主義を脱する方向で動いて来た。
以前は、教条主義によって折伏して来たわけであるから、
今になって「教条主義を脱する」なんて言うのは、
ヤクザが突然、議員になって、昔の事を謝罪せず、善人ぶるのと同じだ。
まったく世間を愚弄しているとしか言い様が無いのだが、
ともかく、創価学会は今、教条主義から脱しようとしている現状がある。

今のところ、御書だけは絶対とされているが、
その御書は、会員が自由に解釈してもいい風潮になっている。

世間から見れば、池田大作の教えが絶対かのように思うかも知れないが、
池田大作は、「大御本尊」や「開眼」のようなヤバイ部分は語らない。
それに、死後はともかく、今現在は、
池田大作も凡夫であり、間違いがあるとされているので、
もし、池田大作に問題ある発言があれば、
「池田先生も凡夫ですから」言って逃げる手段が会員には残されている。

つまり、現在の創価学会には、「公式見解」が無いも同然なのだ。
ただ、多くの会員を集め、上手く、上手く世間を泳いでいる集団なのだ。

私はこれまで、ネットで何人もの創価学会員と議論して来たが、
公式見解を持って挑んで来たものは一人もいない。
みな、「私が思うに」とか「私見ですが」のように、
「自分の考え」として話して来る。

私は残念ながら、創価学会員の個人の見解に対し
議論していられるほどヒマでは無いので、議論は放棄させてもらうが、
とにかく、徹底的に、「公式見解」を持って勝負して来る創価学会員が居ない。

恋人が創価学会員と言う人は良く経験すると思うが、
恋人に対し、問答をしかけても、恋人の口から返って来るのは、
創価学会の公式見解ではなく、その者個人の見解だ。

だから、質問しているこっちは、創価学会の事など知らないのだから、
恋人の答えが、創価学会の考え方そのものなのだと誤解する。

「創価学会って、結構、常識的なんだ」と。

でも、実際は、恋人がそう思わせるために、勝手に作り上げている回答に過ぎない。

誤解して入信してビックリ。
創価学会の真実の姿を知るのだ。

創価学会は掴みどころの無い、うなぎのようなものだ。
尻尾をつかんでも、するすると抜け出す。

沖浦克治さんを「のらりくらり」戦法と失礼な事を言ったが、
これは今の創価学会そのものの特徴なのだ。

以下、「長野対論」動画。

Part 1 
http://video.google.com/videoplay?docid=1941762772424655191

Part 2  
http://video.google.com/videoplay?docid=-4265917566680320196

Part 3  
http://video.google.com/videoplay?docid=4927097678218906017

Part 4
http://video.google.com/videoplay?docid=-2839819385458198136

この動画を観る時の予備知識だが、
御形木御本尊(おかたぎごほんぞん)とは、昔は版画にして大量生産した御本尊、
現在では印刷した御本尊の事である。
これに対し、墨でもって直接書いた本尊を常住御本尊と言うが、
これは特別な信者以外には与えられない。

日蓮正宗では、法主が書いた曼荼羅を印刷して、開眼して信者に授与している。
創価学会は、宗門と分離し御本尊の入手先に困った。
そこで、第26世法主日寛より、栃木県浄圓寺16代住職、日證に授与された常住本尊の
「下野国小薬邑本如山浄圓寺 大行阿闍梨本證坊日證 授与之」
という添え書きを削り、その他、加工修正を加えて印刷し、会員に与えている。

参考↓
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/souka_4.html

P.S.私は今度は同類の動画で「長野法論」と言うのを観てみたいと思う。

無知の信者はやっかいだ

活動もほとんどしない。
会合もたまにしか行かない。
教学の勉強もしない。
だが、毎朝、仏壇の前に座り、南無妙法蓮華経と唱えて出勤する。

こういう中途半端な創価学会員ほど、やっかいなものはない。
だいたい、こういうタイプは2世、3世なのであるが、
幼少の頃から植え込まれて来た「この信心は正しい」と言う思いが、
二十歳になっても、三十歳になっても消えていない。

かと言って、他宗派、他宗教を勉強したり、実践した経験も無いので、
「この信心は正しい」と言う根拠など、どこにも無いのだが。

こうした者は、一つ、二つ、唱題によって幸福を得たと言う体験談を持っている。
人間と言うのは、幸せな事があったり、不幸な事があったり、様々だ。
誰にだって、「超ラッキー!」と飛び上がるような出来事が、
生きていれば何度もあるわけだ。
創価学会員は、その出来事に対し「信心の功徳」と決め付けているわけだ。

では、アンラッキーな事が起こった場合、彼らはどう解釈するか?
「転重軽受」(でんじゅうきょうじゅ)である。
創価学会では、不幸の原因を、
過去世(生まれ変わる前、その前、さらにその前・・・)の
法華経を謗法(ほうぼう:悪く言う事)によって生じた、
宿業によるものであるとしている。

この宿業により、もっとアンラッキーなめに遭うところを、
信心の功徳によって、軽く済む事ができたのだ。
このように解釈する事を「転重軽受」と言う。

例えば、自動車事故で死ぬところを半身不随で助かった、転重軽受だ!などと。

このように、創価学会員の大脳の中では、幸不幸が解釈されて行くから、
「この信心は絶対だ」という確信を持ってしまう。

冷静に周囲を見ると、無宗教の人、他宗教の人でも、
いくらでも自分よりも幸福な人がいることがわかるのに、
彼らはそういう見方はしない。
「今は幸せかも知れない。でも、必ずいつか不幸な目に遭う」
と言う見方をする。

無宗教の人、他宗教の人で、過去に亡くなった「偉人」と言う人達がいる。
ガンジーとか、キング牧師とか。
こういう人は、教義的には明らかに外道であるが、
創価学会では「外道であっても、仏法と相通ずる生き方をした」とする。

じゃあ、外道であろうが、他宗派であろうが、
仏法と相通ずる生き方をしさえすれば、
創価学会などに入らなくて良い事になるのだが、
彼らは「創価学会に入って日蓮仏法を信仰すればなおさら良い」と言う。

これは、パソコンにウィルスが侵入して、
常に誤作動を起こしている状態に等しい。

創価の家庭に生まれ、創価の教えを浴びて育った2世、3世が、
こうした狂った思考に気づき、是正するというのは極めて難しい。

親が狂信者で、親に子供の頃から反発して育ったという2世、3世は、
こういう思考を退けて来たから問題無いのだが、
親がまた、ほどよく熱心な創価学会員の場合、
反発する事なく、信心を培養させてしまうので、脳が狂う。

脳が狂っても、それでも救われるケースが二つある。
一つは、とことん学会活動する事。

創価学会の組織と言うのは、活動すれば活動するほど、役職が上になる。
そして、上位の役職になればなるほど、組織の暗部が見えるようになる。

役職の無い平会員が、座談会のようなところに出席しても、
「忙しいのによく来たね」と褒め称えられるだけだ。
ほとんど活動しない、役職も無い人間には、
まったく組織の暗部が見えない状態になっているのだ。

大企業でも、平社員は社長が怒鳴っているのを、あまり見ないだろう。
公では、社長はおだやかに、にこやかに、人柄よく、振舞う。
ところが、社長室なり、役員室に入ったとたん、顔色も話し方も変わるのだ。
役職が上に行けば行くほど、責任が重くなり、社長の素顔も見え、
企業の暗部も見えるようになる。

だから、活動を徹底して行い、ある時、どうしようもない矛盾点にぶつかった時、
そこで冷静に、創価学会について、信仰について見直すようになる。
矛盾にぶつかっても無理に脳内で解釈して、「見直し」を行わぬ者もいるが、
こうした者は、より「狂い」を強化させて行く事になる。

脳が狂っても救われるもう一つのケースは、教義を勉強すること。
創価学会には「教学試験」と言うものがある。
青年部の場合は「任用試験」「青年3級」「青年2級」「青年1級」とある。

こういう勉強は、将来脱会する上でも、重要だったりする。
なぜならば、教義を勉強する事で教義に対する疑問が沸くからだ。
これは、先の「活動する事で組織への疑問が沸く」と言うのと同じである。
教義を勉強して行くと、どうしても矛盾を感じる部分が出てくる。
この矛盾を、創価学会の幹部に投げかけても、
納得した答えが得られないとすると、
一般の仏教書や、インターネットで調べるようになるだろう。

創価学会の本とか、幹部に聞いても、まったく要領を得なかったのが、
一般の仏教書や、インターネット上の知識によって、合点が行く。
創価教学に矛盾があった事に気づくわけだ。

活動もほとんどしない。
教学もあまり勉強したことがない。
それでも御本尊だけは信じてます。
こういう者ほど、やっかいな者はいない。

自分の恋人が創価学会員である。
これはマズイのではないかと、インターネットを検索して勉強する。
創価学会の組織の事。
教義の事。
これは本当にマズイと気づき、恋人を脱会させようと説得しにかかる。

しかし、学会組織の矛盾を追及しても、彼は活動経験が無いので、
恋人がネット上の捏造記事を読んでしまったとしか思えない。
創価教学の矛盾を追及しても、彼はそもそも、創価教学を知らない。

創価学会員が私のHPを読んで批判のメールをよこす事があるが、
そのほとんどは、あまり活動していない人間のようだ。
活動していないから「デッチアゲ」のように感じてしまう。

また、ネットで創価学会員と教義について論戦した事も何度かあったが、
ほとんど、創価教学を正しく認識していない。
本来の創価学会とは違う「見解」を、平然と述べる。
持論者と問答しても仕方ないので、私はやめるが、
創価教学を知らぬ者に、創価教学の矛盾を突いてもまったく意味が無い。

組織の事もわからない。
教義の事もわからない。
それでも信じてます。
こういう者をどうして説得し、脱会させることができると言うのか?

羽賀研二はロクなもんじゃない。
梅宮辰夫は、自分も過去、遊び人だっただけに、
同じ臭いをする羽賀研二に危険性を察知して、
アンナが交際するのを反対して来た。
それでもアンナは言う事を聞かず、羽賀研二がいい人だと信じ込んだ。
だが、深く付き合えば付き合うほど、羽賀研二の実像を知り、落胆する。
それで別れてしまうわけだが、だいたい、男女ともそうだが、
最初は自分の良いところしか見せない。
深く付き合って行くうちに、ホンネを見せて行くものだ。

「あいつ、ヤバイよ、別れたほうがいいよ」

いくら、友人が止めても、言う事を聞かない。
まだ、その男の正体を見ていないから。
良い部分しか、見せられていないから。

創価学会は、浅く関わっている間は、物凄く良い所だ。
教学も、「入門書」のようなものには、
「なるほど」とうなづく事がたくさん書いてある。
(深く学ぶと矛盾が見えて来る)
これは、付き合いはじめた男と同じだ。
だったら、もっともっと深く付き合えばいいのに。
ドロドロになるまで濃い関係を形成すればいいのに。

でも、本人も、正体の胡散臭さを潜在意識で感じているのか、
あえて「浅い」付き合いに留めているのだ。
だから、いつまでも正体に直面せずに済む。

こういう相手を、どう説得すると言うのか?

説得などできない。
ただ、できる事が一つだけある。
この記事をコピーして読ませる事。
まず、相手は腹を立てるはずだ。
でも、まともな思考回路がまだ残されているならば、
「わからないまま漠然と信じ続ける」と言う愚かさに気づき、
何らのか行動をとるだろう。

もし、腹を立て、「もうお前とは会話しない」などと言う態度に出れば、
その時は、あなたは彼から自由になったほうがいいだろう。

サイト運営について(2)

  • 2008.02.14 Thursday
  • -
  • 01:09
  • -
  • -
  • -
  • by
次に、サイトはあくまでも立ち上げた人間のものだ。
長くやっていると、サイトの管理がだんだん面倒になったりする。
でも、その時には、そのサイトが社会的な役割を持ってしまって、
簡単に閉鎖するわけには行かない。
そこで、サイトを「譲渡する」と言う事を考える。

だが、譲渡した相手と言うのは、サイトを立ち上げた人間ほど、
そのサイトへの想いを持ってはいないものだ。
だから管理も次第に甘くなって、変な方向に行ったりするんだな。

商業サイトならば、「売却譲渡」と言う事が考えられるが、
創価問題サイトの場合は、社会的役割を持っているとしても、
やはり「個人」のものだろう。

さみしいかも知れないが、管理が及ばなくなったら、
サイトを閉鎖してしまうというのが一番、問題が少ない。

今はブログ中心で、
コンテンツと掲示板によるサイトを作成しようと言う人は少ないだろうが、
もし、そういうものを立ち上げようと思うならば、
以上の事に注意したほうがいいと思う。

サイト運営について(1)

  • 2008.02.14 Thursday
  • -
  • 01:09
  • -
  • -
  • -
  • by
私はこれまでネットでいくつかサイトを運営して来た。
サイトを潰したり立ち上げたり、
本当に試行錯誤しながらやって来たが、その結果、学んだ事がある。

まず、掲示板の管理というのは大変だから、
掲示板の書き込みが多くなって来ると、
どうしても共同管理人が欲しくなるが、
「共同管理人は置かないほうがいい」と言う事だ。

共同管理人を置くと、常に管理人同士の意志疎通をはからねばならない。
これは結構、大変なのだ。
順調な時は良いが、「考え方」「方針」の違いが出て来ると、本当に面倒くさい。
また、掲示板の利用者としては、誰が管理人だか、わからなくなってしまう。

どんなに忙しくなっても、自分一人で管理業務をこなしたほうがいい。
そのほうが結果的には楽なのだ。

個人サイトの管理者と言うのは、そのサイトにおける絶対主権者なんだな。
だから、問題あるカキコだと判断したら、
管理人の判断でイエローカードでもレッドカードでも自由に出せる。
その審判が嫌な人は、掲示板を出て行けばいいんだ。

「ここは俺のサイトだ。文句あんのか馬鹿やろう!」
くらいの強さで行かないとサイト管理というのはやってられない。

ところが共同管理人を置いて、うかつに「公共性」を主張しちゃうと、
自分勝手にイエローカード出したり、
レッドカード出したりって事が、できなくなってしまう。
管理人のジャッジに対し「公正じゃない」って言われてしまうからな。
だいたい個人レベルのサイトで「公正」を要求されても困るわけだ。

だから自分一人で管理して、
「私が独善的にジャッジしますよ!」とアピールしたほうがやりすい。
もちろん、一往のルールは提示しておいたほうが参加者には安心だが。